2018年5月8日火曜日

永井博士の続き③平和を祈る永井先生の記事に思う

無条件降伏。17歳だったが、戦争に負けた悲惨な結果を身に沁みて感じた。占領軍に国土は蹂躙(じゅうりん)され、自由は奪われる。長崎は原爆で廃墟になったというのに、占領軍は現実を闇に閉ざした。絵も、活字も、厳しく統制され、自由は全くなかった。
★聖母の騎士誌は太平洋戦争が始まると、廃刊となる。印刷機は没収を免れるため、東京の日本天主公教出版社に預けておいた。戦争が終わると、すぐ取り戻して、終戦から1年4ヶ月後の昭和21年12月に、早くも再刊号が発行された。
★永井先生は、再刊号から、騎士誌に原稿を書いた。勿論、原爆の惨状は書けない。最初の記事は自分の体験「ルルドの奇跡」だった。原爆で重症を負い、死線を彷徨う。妻・みどりさんの母親が「聖母の騎士の、ルルドのお水だよ」と飲ませてくれた恵みで癒された実話を載せた。
★翌、昭和22年は3回。23年は無しで、24年に4回。25年は毎月号12回載せて、26年1月号で永井先生の記事は終わる。その年の5月に逝去された。昨日の日記にも書いたが、先生が書かれた21の記事の題目は、原爆に触れているのは4回(原子野録音①②③、原子野の声)のみで、後は、日常の信仰生活になっている。
★「支払い」「清貧」「古タオル」「殉教者の精神」「塔をたてる」「家と家族」「教会」「感謝しましょう」「親の務め」「お取次ぎ」「平和を」「隣人愛」「天からの招待状」「母性愛」。最後の記事が「希望」になっている。
★この題目に私はこだわる。並べただけで、永井先生の生活や信仰がほのぼのと伝わって来る。原爆の悲惨な状態は書けない。今の普通の生活の中に、真理を見つける。それが永井博士の心情だった。病気の苦しみは殆ど書いていない。永井先生の生き方が、今の私の模範・目標になる。それで今日は、これを書きました。
★永井隆博士の「長崎の鐘」は、何年も経って発行された。そのとき、日本軍がフィリピンで非戦闘員である住民を大量虐殺した記事も合わせていた。
★戦争は悲しい。むごい。多くの血が流れる。誰もが平和を望んでいるのに、なぜ戦争が起こるのだろうか。

1 件のコメント:

  1. マリア・フランチェスカ2018年5月10日 5:55

    聖母の騎士誌戦後再版号の
    経緯と情況は貴重な資料となりますね。
    永井博士の信仰生活が題目から
    本当に伝わって来ます。読んでみたいです。
    小崎さん永井博士を目標にとのこと
    札幌から応援しております。

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