2018年5月31日木曜日

入院2日目 ステントの入れ替えは明日

★入院の夕方、主治医の先生の診察「胸のCTを撮りましょう。ステントの入れ替えは、6月1日(金)午後に行ないます」今日はCTを撮った。
★日程が早くなりそうです。明日が辛抱の日です。乗り越えれば安心でしょう。高原修道士と木村さんが見舞いに来た。

2018年5月30日水曜日

入院1日目 午前中に入院

★高原修道士の運転、付き添い、で午前中に入院。幸いに個室が与えられた。広くて明るい恵まれた部屋。今日は血液、尿、心電図、胸と腹部のレントゲンのみ。ステント入れ替えは6月4日(月)の午後。8カ月目になる。
★小川に流される「笹舟」の様に、お任せの気持ちで落ち着いています。どうぞお祈りください。
 (トマさんの代筆)

2018年5月29日火曜日

朗報です。フランス語「トマさんのことば」を出版

昨年の7月、フランスから1人の男性がホームに訪ねてきた。ジャム・ブリュノさん。ルルドの東、大きな町、トゥールーズに住んでいる。エンジニア。48歳。日本人の奥さんを難病で亡くして、人生が変わった。教会奉仕や、社会奉仕に努力している。2人の子供がいる。「なんで、ホームに?」「3年前の夏休み、聖コルベ館で出かける前の小崎さんに会った。短い出会いだったが、冷たい飲み物を一杯下さった。それで又、来ました」
★ホームで遠来の客と語り合い、ちょうど「トマさんのことば」を出版した時だったので、1冊差し上げた。
★今年になって、「トマさんのことば」をフランス語に訳して出版したい、と便りがあった。訳したフランス語の原稿が送られてきた。早速、福岡の倉田さんのフランス語の先生に見てもらい、修正して返送し、写真は騎士社から郵送した。結果を待っていました。フランス語「トマさんのことば」が送られて来ました。「ああ、日本語と、全く同じだよ」。本当に嬉しかった。実現しました。ジャムさん、ありがとう。あなたの努力に感謝します。良く出来ておりますよ。
★フランス語「トマさんのことば」5冊と、ジャムさんの便りが入っていた。「フランス語版が完成しました。出来上がったばかりの本です。200冊、印刷しました。印刷費用の募金のため、6月23日に、トゥールーズ市に住んでいる日本人とフランス人の友人のオルガニストに頼んで、チャリティのパイプ・オルガンのコンサートを催す予定です。ご参考までに、チラシを同封しました。コンサートの参加者に配る予定です。そして、ルルド市にコルベ神父さんの記念館があるので、そこに置きましょうと考えておりますが、如何でしょうか。『トマさんのことば』がフランス人の読者の心を慰める事が出来れば、嬉しいと思っております。お元気いっぱいの90歳の1年になりますように」
★ジャムさん、フランス語「トマさんのことば」を、ルルドのコルベ神父の記念館に置いてください。沢山のフランス人の目と心に留まりますように。またコンサートに協力してくださるジャムさんの親友たちに感謝致します。
★明日、朝、9時20分、ホームを高原修道士さんの車で出発し、諫早総合病院に入院します。お祈り下さい。

2018年5月28日月曜日

傾聴ボランチアの女性が来る。世の中に愛の奇特な人

「お待ちして、おりました」。愛の実践の奇特な人、傾聴ボランチアの女性が、午前中に来た。月1度、女性が来るようになって、1年が過ぎた。世の中には、苦しむ人、悩む人、癒しを待っている人の傍に寄り添って、「苦しいね」「痛いねぇ」と言葉を掛ける人は居る。だが、この女性のように「黙って聴いて、受け止めてくれる、だけの人」は、そうは居ない。セチがらい世の中だ。誰がヒマをもてあそび、人の話を根気よく聴いてくれる他者が居るんですか。無視する人は居る。説教する人は居る。イヤがる人は沢山居る。
★だが、この女性は違うんです。胸に下げたカード。傾聴の訓練を受けている。語る人の話を聞いて、その人の言葉を繰り返して聞かせる。当方、話をしている内に、「ああ、この人は、大事にして、くれる」。それが分かりました。ボランチアだから、気兼ねがない。仕事だったら、次の場所に行かなくては、ならないだろう。「傾聴=ボランチア」。2つ合わさった処に、聴いてくれる人の愛情、好意、思いやり、が感じられる。「よくぞ、傾聴ボランチアをなさって、おられますね」。時間も、交通費も自腹です。本当に感心します。自分を振り返って「オレは、傾聴ボランチアだっただろうか」の反省も起こる。
★女性に言いました。30日に入院する。ステントの入れ換え。心配です。お医者さん、看護師さんの応対も気になる。1週間の辛抱です。これは自分の宿命。生きる為に受け入れる。更に、目は、ナミダ目。良くならない。老いも感じる。だが今年一杯は頑張りたい。
★あっと言う間の、1時間半。アタマの整理も出来て、すっきり、なった。喜びが湧いた。有り難い。また来て下さい。

2018年5月27日日曜日

聖母の騎士・ルルド祭。説教は水浦征男神父


5月は聖母月。最後の日曜日には恒例の長崎・聖母の騎士の「ルルド祭」。コルベ神父から続く祭典です。最近は、先ず教会でミサが行なわれ、その後、ルルドへロザリオを唱えて登る。足の弱い人は教会内で、修道士の先唱でロザリオを唱える。お説教は水浦征男神父さんでした。ホームからも車2台が出て、瀧神父さん、トマ修道士を含む12人が参加しました。
★水浦神父さんは、先ず「聖母の騎士の祭壇を見てください。大きくマリアさまが安置され、その上に十字架のキリストさまが居られる。珍しい祭壇です。これはコルベ神父の『マリアを通してイエスへ』を示しています。今日は、コルベ神父の出版の聖母の騎士誌に就いて考えてみましょう」と、如何に苦労して出版に専念されたかを話された。長崎旅行で、マチア修道士から貰った1冊の騎士誌で、信仰に導かれた女性も居る。水浦神父さんが言われた「神さまへの道筋」が、心に響いた。マリアさまが神さまへの道筋をつける。
★私たちの人生にも、神さまへの道筋をつけてくれる人が居るのでないか。神さまは色んな手段で、道筋をつけられる。お恵みを戴ければ、お恵みに応えて行こう。すると、またお恵みに、つながっていく。神さまの声、導き、愛を大切に生きたいと思った。
★教会内に飾られていたのは、ファチマのマリアさまの美しい御像だった。丁度、祭壇の壁に電灯があり、それが聖母の御頭で輝いて、いい写真になったと満足した。
★ホームの皆さんの昼食は、聖コルベ館の小・ホールで弁当を頂いた。トマにとっては懐かしいホールであった。「ここで24年間、働いたのか」。そう思うと、背中が何やらムズムズした。

2018年5月26日土曜日

ペトロ瀧憲志神父さん、誕生日。87歳。おめでとう

今朝、朝食の食卓に就いた。隣の席、瀧神父さんの朝食の傍らに、封筒があった。「あッ、神父さんの誕生日だ。おめでとう」。誕生日には、職員一同からお祝いの手紙がくる。これが、そうです。縦、14cm。横、20cm。Pushを押すと、音楽が鳴る。写真は昨年の夏、近くの轟(とどろき)の瀧へ、流しソーメンを食べに行ったときの神父さんです。職員は、ちゃんと、丁寧に、飾ってカードを作ってくれるんですね。ありがたいことです。こちらも嬉しくなります。
★瀧憲志神父さんは、1931年、昭和6年5月26日に、鹿児島県大島郡喜界島で生まれた。87歳になられた。1951年12月に洗礼を受ける。永井隆博士の「滅びぬものを」の本が信仰に入る決めてとなったそうです。1956年4月、聖母の騎士修道院に入る。コンベンツアル聖フランシスコ修道会に入会する。修道名は、ペトロ。司祭叙階は1965年3月です。ホームに入所は、2017年4月6日です。1年が過ぎた。「トマのおかげだよ」と言われる。「いえ、いえ、どうも。こちらこそ」
★瀧神父さんが入所されたので、トマも寂しくない。お互い慰め励ましている。トマが寝込むと、心配して声をかける。たのもしいです。食堂は、2階。瀧神父さんのお部屋は、1階です。トマは3階で、離れている。食事が終わると、一緒に2人でエレベーターに乗って、先ず1階へ、次に3階へ直行します。仲良くやっています。
★瀧神父さんは、朝、ミサは、湯江教会で、修道院の司祭、浜田神父さん、山内園長神父さんと一緒に祈ります。朝は信徒と共に、聖務の朝の祈り、午後からのロザリオも一緒に祈ります。神父さんが居られるので、信徒も心強いです。時々、お説教もなさいます。声が大きいので、よく聞こえます。87歳、お歳に負けず、杖をついて、ゆっくり歩けます。トマの日記の最も近い読者は、瀧神父さんです。
★ペトロ瀧神父さん、いつまでもお元気で居てください。皆さんも瀧憲志神父さんを見守ってください。お祈り下さい。

2018年5月25日金曜日

あのグレゴリオ、このグレゴリオ。心の中のキズナ

ポーランド人修道士、グレゴリオさんの写真です。コルベ神父の時代に長崎へ来て、戦争中は苦労しました。顔は、ゴッツイ感じの修道士でしたが、心の優しい人でした。受付の印象が深い。晩年、ポーランド・ニエポカラヌフ修道院へ帰国して、養生していた。私がポーランド旅行中に会いに行ったとき、院内の恵まれた病院で、元気にしておられた。再会を非常に喜んだ。しかし間もなく帰天された。100歳でした。
★私が長崎の聖コルベ館に居た時の話です。音もなく1人の男性が入ってきた。「カトリック?」「結婚して、10年して、受けました」「へえ、長崎の男性にしては、珍しかね。霊名は?」「グレゴリオ」という。「なんだ、霊名も珍しいね」。共感を得た。「うちの修道士さんにも、グレゴリオさんって、居たよ。100歳で亡くなった」
★男性の話を聞けば、結婚しても、子供に恵まれない。車で、ヨメさんを教会へ連れて行く。ミサが終わるまで、車で待っている。すると神父さんから声がかかった。「中へ入りなさい」。教会の一番後ろの席で見守っていた。するとお恵みであろうか、一番欲しかった子供に恵まれた。「そりゃ、良かったね。大喜びだった、でしょう」。修道士だって気持ちは十分に分かる。時々、ルルドにお水を汲みに来るようになった、という。
★「なんで、グレゴリオって、付けたの?」「映画、白い鯨の俳優の名前で、好きだったから」「なーんだ、そんなことか」。それでも彼、グレゴリオは帰りしなに、こう言った。「神さまの、存在って、言うか、神さまの導きだよね。働き、それは確信しています」。今日は、そんな事を思い出した次第です。

2018年5月24日木曜日

アシジ聖フランシスコ大聖堂・献堂の祝日でした


日記を書き始めた年、2009年8月に、次の文がある。「イタリア・アシジの聖フランシスコ修道院で8年間暮らした瀧神父さんが、私たち(聖母の騎士修道院)共同体の一員となり、一緒に祈り、食事している。時折、アシジの話が食卓に出る。懐かしいアシジ。お城のような修道院にも何度も宿泊し、修道者一緒の昼食、夕食では、毎度ワインも飲んだ。日本で飲むワインとは全然違う。飲み易く、家庭的な、おいしいワインだった。滝神父さん『日本人の観光客が沢山来るが、ツアーの添乗員は、15分で説明して下さい、と言われることもあって、困るね。歩くだけで15分はかかる』。大聖堂には、ジョットーの有名な壁画が多く残る」。大聖堂は3層になっており、地下に、聖フランシスコのご遺体が安置されている。ここで沈黙して祈ると、心の底に沈んで行く気持ちがする。
★その瀧神父さんは、いまホームで一緒に生活し、食事は隣合わせで食べている。今日は、湯江教会では、アシジの聖フランシスコ大聖堂・献堂の祝日をお祝いした。我らの父であるアシジの聖フランシスコ。「誰に対しても兄弟姉妹であり、その広がりは、空よ、星よ、小川よ、魚よ、オオカミよ、と呼びかけ、貧しい人への愛、病者、重い皮膚病者に対して手厚い看護を尽くし、教会の修復、十字架のキリストへの熱情から我が身に尊い聖痕を受けた。争いを好まず、平和を求めた聖フランシスコ、聖人への思い出は消えない。本会、コンベンツアル聖フランシスコ修道会員のタマシイの故郷、憧れの場所でもある。
★昼食はサンドイッチだった。当然、パンを食べながら、瀧神父さんと語り合った。「献堂は13世紀ですよね」「1253年だよ」と、はっきり覚えておられる。「神父さんが居られた時、修道院に何人位、居ました?」「60人位かな、16ヶ国から来ていた」「8年間、居た中で、一番心に残る出来事は何ですか?」「地震だね。丁度、行って直ぐ起こった。修道院の者が2人亡くなり、外部の隊員も2人犠牲になった」
★中世で、キリストを生きた人は、聖フランシスコ。現代で、キリストを生きた人は、聖コルベ。これらの人の生き方に、現実にキリストに生きる人間を私たちは見ている。そのように自分も生きたいと願い、ロザリオを唱えた。(トマに送られて来た、大阪市・許書寧さんの絵)

2018年5月23日水曜日

雨の中を、長崎へ。クリニックの定期・診察に行く


定期の診察日。雨だった。ホームでの朝食は、なし。修道院で、チーズをのせて焼いたパン、温かい牛乳、リンゴ半分をいただく。8時に出発した。高原修道士の運転。白い車は、車検の代車。車には、大きなポリタンクが何個も積まれている。トマが診察している間、聖母の騎士で「ルルドの水」を汲む。ホームや修道院では、このルルドの水を愛飲している。
★9時過ぎに、長崎市坂本町のヨゼフ・クリニックに着いた。待合室には、10人程の受診者がいた。先ず看護師さんから名前を呼ばれ、体温、血圧、状態などを告げる。しばらく待つと、大きな声で「タガワ・ブラザー」と高木先生。「よしや」と立ち上がる。診察室に入りながら「こんにちわ。よろしく。おせわになっています」と声をかける。ジーッとして居れない性分だ。「30日から、ステントの入れ換えで入院します」。体調を訴える。「歩きなさい、歩きなさい」と先生は言われる。「とても、歩けません」と言いながら、「先生、写真、撮っていいですか」。毎月、通っているが、写真を撮ったのは最近では初めてです。勇気が要りました。高木先生のヨゼフ・クリニックには2001年が初診で、もう17年、お世話になったいる。良い医師に出会うのはお恵みです。高木先生はカトリック。湯江修道院の橋口修道士、ホームの園長山内神父も通院している。診察が終わったのが、10時だった。今日は早かった。ちょうど高原さんが迎えに来た。早くホームに帰りたい。ホームの方が落ち着きます。高来町の薬局に寄って、処方箋を出して、ホームに帰ったのが、11時20分だった。長崎行きの診察が終われば、ホットします。

2018年5月22日火曜日

雲仙のお菓子「湯センペイ」。山の思い出、沢山

「ハイ、おみやげ」。隣の修道院の浜田神父さまが、自室まで持って来られた「湯煎餅」です。「殉教祭」の夕方だった。雲仙の有名なお菓子で「湯センペイ」と呼ぶ。直径10cm。厚さは0.3mmのポキ、ポキ、折れる軽いお菓子で好物です。「ああ、わざわざ有り難う」。感謝して受け取った。雲仙・町中のお店で、実際に実演・焼いている情景が目に浮かんだ。
★雲仙に初めて行ったのは、戦争が終わって5年目、昭和25年の秋だった。私は高校3年で(小神学校=当時、中・高で120人の小神学生が居た)、舎監のロムアルド修道士と、高3の同級生9人で、卒業旅行だった。交通は不便で、乗合バス利用で、長時間かかって雲仙まで登った。旅館へ2泊。雲仙の天辺まで登って、大変な豪雨に会う。雨のツブの大きさに驚いた。ほうほうの態で、旅館に戻ったのを今でも、はっきりと覚えている。ポーランド人の修道士ロムアルドさんは着替えがなく、ダルマに浴衣を着せた姿が奇妙におかしかった。枕には汚さないために紙を巻いていた。紙には「こころ安らかにお眠りください」とあったが、同級生の1人が紙を集めて、鼻紙にした。彼は蓄膿症だった。隣の部屋は県外の教師一行で、夜更けまで騒いで眠れない。次の夜は、ノミに悩まされた。炊事場のカシアノさんが持たせた、ポーランドのお菓子「フルスチィ」が残った。当時は食料不足の時代。残ったお菓子を仲居さんに上げようと決める。鼻紙の同級生が、その役目に当たった。彼は「恥かしいなァ」と、てれながら、フスマの傍へ「スーッと」寄って練習をする。途端に、フスマが開いて仲居さんが入ってきたので、「びっくり、こけた、鼻紙くん」。みんなは大笑いだった。
★あれから何年、経つだろう。鼻紙の同級生は、ローマ留学して、神父になり、素晴らしい活躍をしていたが、亡くなった。いま、修道会に残るのは、私と、あと司祭1人だけである。湯センペイを食べながら、8人の同級生のこと、ロムアルドさん、カシアノさんを思い出している。

2018年5月21日月曜日

老いても、咲くのは、善き出会いにある。来たれ友よ

「老いて、なお、置かれた場所で、咲きなさい」。そう、ですよ、ね。どこかで聞いた言葉でもある。老いても、人生ですからね。最後まで、生きる。老いると、これが中々難しい。人生って、長ーがい。青年時代も、壮年時代も、自由があり、夢があり、何処へも行けるじゃないですか。そのままの気持ちで、老いに突入すると、自由がある、夢がある、と思うかと言えば、そうではない。色々と不自由さが出て来るんです。
★最近は、右側の肩というより、上腕と肩の付け根というか、その辺が痛み、困るのです。レントゲンも撮りました。考えてみれば、右腕で、90年ですよ。書いたり、描いたり、最近はパソコンを打ったり、長ーがい年月、使ってきたから、そりゃ腕の付け根も痛むでしょう。機械だって、擦り切れます。五千円で買った腕時計が、針が止まり、動かなくなった。いつ買ったか覚えない年期の古時計ですからね。目も、ショボ、ショボして、ナミダが出て、聖書の細かい字も霞むようになった。本も読めません。背中だけは、シャンとして置きたい、そんな気持ちです。
★読書を振り返ってみると、小学生の頃は、サトウ・ハチロウのユーモア小説。修練者になって、病気の時には、倉田百三の『出家とその弟子』。よくぞ、こんな本が修道院の図書室にあったものです。エックハルトの『離在』。その後は、丹羽文雄の文章の流れに引かれた。石川達三の『四十八歳の抵抗』。小原信の『出会いの心理学』。この本は、最高によかったな。特に、この『出会い』は、聖コルベ館で愛読した。言葉の流れに影響を受けたと思います。
★「善き出会いは、人生の宝です。生きる喜びです。老いても咲くのは、出会いにある」

2018年5月20日日曜日

聖霊の風よ、吹いて下さい。弱い人間を導き下さい

早朝、修道服を着て、廊下に出た。「あっ、朝焼けだ。きれい」。思わず自室からデジカメを取り、写した。静かな朝が始まる。平和な一日が始まる。
★今日は、教会では、聖霊降臨の主日をお祝いした。「父と子と聖霊」とか、「聖霊、来たり給え」とか、日々祈ってきた。弱い我が身を「聖霊、守り給え。導き給え」と祈った。
★雲仙では、殉教祭が行なわれるので、ホームでも元気ある者、希望者は出かけて行った。私は、最近は行っていない。足が弱って、自信がない。雲仙では、あの煮えたぎる温泉の熱湯を身体にかけられて殉教した。今、温泉の湯煙の中の山中に十字架が立っている。若い信徒、中・高生や、青年会の信徒たちに参加して欲しいと願う。若い人たちに信仰の継承を期待している。
★ホームの教会では、午後3時15分から、毎日、共同でロザリオを唱えている。祈ると心が安らぐ。カトリックの祈りの雰囲気で、生涯、本当に生まれた時から、母親からお乳を与えられる毎に、「父と子と聖霊によりて、アーメン」と母親の手で十字架をさせられて育ってきた。「父と子と聖霊」。今日は聖霊のお祝いだが、聖霊の「風よ。吹いて来てください」と祈るばかりです。

2018年5月19日土曜日

過去の、若い頃の、あの人のことが、想いに浮かぶ

ホームの廊下の床に置かれた可愛い花。立ち止まって、ジーッと見る。
★ふと、1つの想いが、浮かぶ。過去の、若い頃の、あの人のことが想いに浮かぶ。あの人は、心の中で生きている。心の痕跡はいつまでも消えない。私が生きている限り、その人は、ひっそりと隠れて生き続けるだろう。私が元気で生きて、笑顔で居れば、過去のその人も幸せだろう。
★昔の人を想って、笑顔で居たいと思う。元気で居たいと思う。人柄とは、笑顔、元気、主体性にある。めぐり合わせがあって、人は幸せになる。幸せを見つける。消えない痕跡を刻む。そこに、ふしぎな、おもしろさ、喜びが、ある。
★人生で、考え、想い描いたことは、物事の、渡り流れる中での、ふしぎな計らいと、人と人との、ふしぎな縁(えにし)だった。それを、この花を見つめながら、意識している。

2018年5月18日金曜日

ヨハネ村山修道士さんの葬儀・告別式で安息を祈る

使徒ヨハネ村山安治修道士さんの葬儀・告別式に参加し、修道士さんの冥福を祈った。
★ヨハネさん、93歳。苦情は一切、聞かなかった。息づかい、声で分かるらしく、かえって、こちらが慰め、励ましを受けた。葬儀で貰ったカードに「無線やパソコンで人びとと交わり、穏やかながらも洞察のある言葉と祈りで人びとを支えた」とあったが、まさしく、その通りだったと強く感じた。目は不自由であったが「洞察ある言葉、祈り」で輝いていたヨハネさん、忘れないでしょう。「隠れたところにおられる、あなたの父に祈りなさい。そうすれば、報いてくださる」

2018年5月17日木曜日

ヨハネ村山安治修道士さん、93歳。神に召される

昨日の夕方、6時過ぎに、入院中のヨハネ村山安治修道士さんが、神に召された。93歳。今日、午後から湯江教会で、お別れの会が行なわれた。修道士の兄弟を、神の御許に送るのは、寂しい。修道者の兄弟や、シスターたち、ホームの皆さん、御親戚の方々も参列して、お別れのお祈りを捧げた。ホームを出発して、今夜、長崎・聖母の騎士修道院で、お通夜、明日は午前中に、葬儀・告別式が行なわれる。
★ヨハネ村山修道士さんは、目の不自由な日々が、50年余り続いた。ホームでの生活は2年程だった。村山修道士さんの祈る姿が尊く、美しい。「ヨハネさん」と声をかけると、いつも「賛美と感謝」と応答した。「すべては、みせつり。聖母、聖霊さま、賛美と感謝。その心で生きている」
★大正13年7月生まれ。戦後、カトリック養護施設の指導員となり、そこで洗礼を受けて、そのまま施設経営の修道会の修道士となった。修練期を終えて、再び元の施設に戻る。およそ10年が経った頃、目の病気を発症して、目が不自由になった。養護施設を22年勤めて、多くの男子児童を育て、社会に送り出した。シンの強い、それでいて優しいヨハネさんだった。
★谷村神父さまを失い、今度はヨハネさんを見送って、本当に寂しさを感じている。

2018年5月16日水曜日

イチ、ニィ、サン、ラジオ体操。カラダに、いいね

昨日の日記のコメントに、スペインを巡礼中のFrancisさんから「今、スペインのテレビのニュースでトマさんのインタヴィユーが出て、ビックリしました」あり、私も驚きました。コルベ神父の「二つの冠」の映画でしょう。スペインでも、トマが出るとは、予想もしない。(トマは、その時、日本語を話していましたか?)「生きているだけで、ありがたい。感謝です」。Francisさん、意義ある旅をつづけてください。「生きている意味は、あとから湧き起こる」
★ホームでは、毎日(日曜日を除いて)、朝と午後に、「ラジオ体操」の音楽が廊下に鳴り響きます。部屋を出て、廊下で、屋外を見ながら、カラダを動かしています。体操は椿原学校の時代に実行していたから、抵抗は全くない。好んで、やっています。
★今日は、ホームでは、毎月1度の「礼拝の日」で、車椅子の信徒や、他の皆さんが参加しました。祈れるのも、有り難いことです。
★「具合は、どうですか」と、時折、聞かれる。余り好きではない。「横ばい、ですね」と、答える。「元気そうじゃ、ないの」「ええ、まあ」「声も大きいし」。私は、ニコリ。動ける間は、何とか努めます。30数年前に、騎士誌のために取材して掲載した女性から、突然、手紙が届いた。名前は覚えていました。懐かしく、その記事を取り出し、読み返してみた。他にも、自著を読んだ男性から、電話があったり、感謝しています。「生きている、生かされているだけで、感謝」が実感です。
★我が足跡に、何処で、どのように、花開いているのか、分からない。「生きる意味も、価値も、後から湧き起こるだろう」

2018年5月15日火曜日

若者と外食、語らい。楽しいひと時。バス停面白い


若者が来ると、老人は楽しくなる。声が、いいね。「トマさん」「トマさん」と呼びかけられると、気持ちがウキウキする。若者は未来があるからね。イチゴの形をしたバス停。この町のバス停は皆、果物です。メロンあり、トマトあり、地元の中学生が珍しいバス停を広報しています。
★「トマさんのことば」の編集者、野々村哲さん、塩沢美樹さんがホームに姿を見せた。昼前だったので、「食事に行こう」と誘った。野々村さんの車に乗って、高来町の隣町、小長井町に入ると、このバス停だよ。最近、塗り替えられて奇麗になった。有明海沿いに車は走ると、潮干狩りが出来る僅かな砂浜がある。その傍らに食事処がある。「大橋」という名の田舎の魚料理店です。2人の若者と語らいながら、定食を食べた。小長井町の修道院に、2度、11年と6年、合わせて17年を過ごした。後の6年は、「大橋」で食事をしたり、椿原学校の先生の結婚披露宴も、ここで行なった。懐かしい食事処です。
★食事の後で、私の日用品の買い物を手伝ってもらい、ホームに帰って、しばらく話し合った。2人は、私の希望に従って行動してくれて、作品を仕上げてくれる。今度も、頼りににていますよ。

2018年5月14日月曜日

マチアさんを思う日。騎士誌を配る修道士だった

聖マティア使徒の祝日。朝の聖務で祈るとき、ポーランド人の修道士、マチアさんを思い出した。長崎市内で、聖母の騎士誌を配っていた。「コルベ神父サマ、クバリ、マシタ。ゼノサン、クバリ、マシタ。イマ、ワタシ、クバリマス」。テレビも追いかけて、当時は長崎の風物詩になっていた。
★マチアさんは、修道院では最初、牛を飼っていた。大きな篭を抱えて、大きな体でルルドの山へ草刈に行く。牛乳をしぼった。他に、パン焼きの係りでもあった。マチアさんのパンは、それは美味しかった。食料が少ない時代だからね。小神学生の私たちは、パン焼き家から、大きなパンを両脇に抱えて、炊事場のカシアノ修道士へと運んだ。時代は変わって、牛乳も、パンも町から調達して、マチアさんは失業した。それから騎士誌を抱えて毎日、市内へ配布に出かけた。「読みタイ、デスカ。欲シイ、デスカ」。マチアさんの顔を見て、献金する善男善女も中には居る。修道院の会計は喜んだ。
★マチアさんについて、1つの思い出がある。ポーランドへ行ったとき、マチアさんの実家を訪ねた。不便な田舎の村だった。兄弟姉妹、親戚が寄って来たので、録音機で、ポーランド語を収録した。長崎の修道院では、食堂で、私の隣の席がマチアさんだった。喜んで貰えると、家族の録音を聞かせると、以外にも、マチアさんは顔の表情をゆがめて、「聞きたくない」態度を強く示した。「もう故郷は、遠くに離れている。いま、マリアさまのため、がんばる」。私の心には、そう伝わった。「ごめん、ね。マチアさん」

2018年5月13日日曜日

時々は、上を見よう。視点を変えれば景色も変わる


「主の昇天」の祭日です。弟子たちは、イエスが天に上げられた後、寂しかったでしょう。「そこに孤独性が出てくる」と思いました。でも、主は言われる。「また一緒になれる」。希望を与えられた。
★人間は本来、孤独だと思います。独り居て、独り苦しむ時は、本当にツライです。しかし自分は独りでは、ない。イエスが私を愛し、見守り、常に導いて下さる。これまでも、そう、だった。それを肌で感じようと努めることが、信仰でしょう。目の前の事だけに捕らわれるのでなく、上を(天を、神を)見ましょう。視点を変えれば、流れが変わる。景色も変わる。
★湯江教会では、聖母月のマリアさまへの賛美とお祈りの日曜日として、ミサ後、ささやかな集いが行なわれた。ロザリオを唱えて、各連ごとに、飾られたマリア像にローソクを灯しました。聖母賛美の実践は、次の時代を担う子供たちに大切です。信仰、信心の継承です。聖母賛美の思い出は、子供たちの心に残るでしょう。
★5月13日は、ポルトガル・ファチマで、聖母マリアが3人の牧童に出現した記念日でもある。私も、ファチマに巡礼しました。人間は、あの巡礼の感動も忘れてしまうのですね。寂しいです。それで思い出した。度々書いたが、長崎教区・中島万利神父は98歳のとき、「ロザリオは毎日、6本唱えている。ロザリオを唱えると、『天国へ行けます』と、ファチマの聖母の御言葉です」と私に直接に言った。99歳で、天国の幸福に入った。中島神父さまの言葉を度々思い出します。

2018年5月12日土曜日

母の日の集い。男子職員が総出の寸劇で盛り上げた


母の日の集い。全員が食堂に集まった。皆で、お母さんの歌「母さん、お肩をたたきましょう、タントン、タントン」を唄った。コーヒー、紅茶、緑茶が出て、お菓子も出た。次に出たのが、この面々です。今日は母の日だから、女性職員は見物です。男子職員が総出で出演した。世の中には、心のよからぬ者がいるんです。男子は元気がいいよ。紙で作った剣で、打ち合いも始まった。そこへ現われたのが名奉行か、迷奉行か。お説教が始まった。「一人で居るなよ。早く彼女を連れて来なさい」「売店のお菓子の種類が少ないぞ。もっと豊富に揃えなさい」「ネコばかり、連れて来るなよ」「サカナ釣りに行くのは、いいが、釣られるな」など、聞いている皆んなは拍手喝采。盛り上った。女性職員もカツラを被って出て来て、一席、言葉を添えた。最後は、女性の皆さんに、花束が贈られた。長生きして、いつまでも元気で居てください。めんどうは、オレたちに任せなさい。安心しなさい。お互い助け合って良いホームにして行きましょう。めでたし、めでたし、で終わりました。その足で教会へ行き、ロザリオを唱えたところです。祈りがあって、笑いがあって、奉仕があって、そんなホームで暮らしております。

2018年5月11日金曜日

過去の人が時々「フゥーッ」と脳裏によみがえる

今朝、ミサへ行くとき、ホームから見た日の出前の風景です。有明海に雲仙岳。空には、三日月があるのが、わかりますか。今日も、平穏で、無事な日が始まる。「生きているだけで、素晴らしい」。そんな声が聞かれる。本当に、そうだろうか。
★聖コルベ館に居たとき、「わたしは仏教です」という女性が、やってきた。トマ修道士は、コルベ神父のご像の前で一緒に写真に撮った。気に入ったのか、女性はトマの本を、沢山、買って帰った。忘れた頃に又やってきて、「本は、息子や孫に配ったり、近所の人に差し上げたりした」と、いたくコルベ神父やゼノさんに惚れ込んで、以来、聖母の騎士の事業を応援して下さる様になった。度々聖コルベ館に来るので、当方からお宅に、お礼に訪ねたこともある。「生きているだけでなく、人助けが何よりの生き甲斐」と女性の顔は、イキイキとしていた。「助ける人の顔は、輝く」。そう思った次第です。
★女性が90歳になったとき、また「小崎さん」と訪ねてきた。「骨折したが、元気になった。お恵みですよ」という。出会って、大きな喜びだった。「おばあちゃん、長生きしてね」と声をかけつつ、娘さんの運転する軽ワゴン車を見送ったが、あの女性は忘れない。あれから何年が経っただろうか。女性とは連絡せずに、疎遠になっている。いま、トマも90になって、脳裏には、このように過去の人が時々「フゥーッ」と、よみがえってくる。

2018年5月10日木曜日

若者よ、前に進め。後ろに、誰が居たか、確かめよ

若者って、いいですね。未来がある。30年後、50年後、この若者は、どうなって、いるんだろう。いま、老いたる者は、若者に托するものが、あるだろうか。
★大学院生の若者が午後、訪ねてきて、「小崎さん」と呼びかけ、話を聞いてくれた。論文をまとめている。応じて、3時間、語りましたよ。疲れましたね。夕食は五島ウドンでした。
★この若者は前にも訪ねてきた。教授から1冊の本を読みなさい、と渡された。セルギウス修道士の「越えて来た道」だった。読んで感動した。コルベ神父を知り、ゼノ修道士を知り、福祉で働くシスター達を知り、最後に小崎さんに辿り着いた。大学院では人間科学専攻。社会福祉士、精神保健福祉士の資格を持っている。資格の場所でも働いている。
★未来があるじゃないですか。夢もあるじゃないですか。老いの語りが役にたてば、そりゃ幸いです。惜しみなく語りました。若者の興味には答えなければ、ね。
★若者は言った。「また、来て、いいですか」「ああ、いいとも。電話して、来なさい」。若者の文筆に、コルベ神父、ゼノ修道士、ミロハナ神父の出番があるなら、そりゃ有り難い輝きだよ。

2018年5月9日水曜日

母の日に。聖母月に。家族の愛と祈りが人を幸せに

ホームの介護詰所。目立つ膝下の壁に、「母の日にちなんで、折り紙の花を飾るので、ひと言、書いてください」と女性職員さんから頼まれた。
★この間は、サクラの季節だった。あの時は、「咲くサクラ、散るサクラ、ともに美しい。されど、老いる桜木は、もっと美しい」と書いた。この言葉は結構、受けたね。
★さて、今度は、何と書けばよいのだろう。やっぱり考えるよ。思いついた言葉が、これです。「母の日に。私のおかあさん、思い出、いっぱい」「聖母月に。天の母、マリアさま。お守り、ください」。90歳になろうが、100歳になろうが、自分が母親であっても、命を受けた自分の母親のことは、決して忘れないだろう。自信を持って言える。母親の思い出、言葉を沢山覚えておけばよかった。
★聖コルベ館に居た頃、中学生たち2クラスが、平和学習に訪れた。彼らに話して聞かせる内容は、もちろんコルベ神父のように「お礼を求めないで、助ける心」「仇なる相手を、赦す心」「悪に負けない、勇気」だった。それに加えて、トマ修道士は強調した。「私は、若くして、両親に死に別れた。今、思うことは、もっと、もっと、両親が若い頃の話を、沢山、沢山、聞いておけば、よかったな。今、皆さんは、両親から沢山、話を聞いて、覚えていてください。おかあさんの思い出、いっぱい。これから人生の苦難の波が押し寄せるが、それを乗り越えるのは、愛、家族の思い出です」

2018年5月8日火曜日

永井博士の続き③平和を祈る永井先生の記事に思う

無条件降伏。17歳だったが、戦争に負けた悲惨な結果を身に沁みて感じた。占領軍に国土は蹂躙(じゅうりん)され、自由は奪われる。長崎は原爆で廃墟になったというのに、占領軍は現実を闇に閉ざした。絵も、活字も、厳しく統制され、自由は全くなかった。
★聖母の騎士誌は太平洋戦争が始まると、廃刊となる。印刷機は没収を免れるため、東京の日本天主公教出版社に預けておいた。戦争が終わると、すぐ取り戻して、終戦から1年4ヶ月後の昭和21年12月に、早くも再刊号が発行された。
★永井先生は、再刊号から、騎士誌に原稿を書いた。勿論、原爆の惨状は書けない。最初の記事は自分の体験「ルルドの奇跡」だった。原爆で重症を負い、死線を彷徨う。妻・みどりさんの母親が「聖母の騎士の、ルルドのお水だよ」と飲ませてくれた恵みで癒された実話を載せた。
★翌、昭和22年は3回。23年は無しで、24年に4回。25年は毎月号12回載せて、26年1月号で永井先生の記事は終わる。その年の5月に逝去された。昨日の日記にも書いたが、先生が書かれた21の記事の題目は、原爆に触れているのは4回(原子野録音①②③、原子野の声)のみで、後は、日常の信仰生活になっている。
★「支払い」「清貧」「古タオル」「殉教者の精神」「塔をたてる」「家と家族」「教会」「感謝しましょう」「親の務め」「お取次ぎ」「平和を」「隣人愛」「天からの招待状」「母性愛」。最後の記事が「希望」になっている。
★この題目に私はこだわる。並べただけで、永井先生の生活や信仰がほのぼのと伝わって来る。原爆の悲惨な状態は書けない。今の普通の生活の中に、真理を見つける。それが永井博士の心情だった。病気の苦しみは殆ど書いていない。永井先生の生き方が、今の私の模範・目標になる。それで今日は、これを書きました。
★永井隆博士の「長崎の鐘」は、何年も経って発行された。そのとき、日本軍がフィリピンで非戦闘員である住民を大量虐殺した記事も合わせていた。
★戦争は悲しい。むごい。多くの血が流れる。誰もが平和を望んでいるのに、なぜ戦争が起こるのだろうか。

2018年5月7日月曜日

永井博士の続き。浦上天主堂の崩壊図を模写した

戦争が終わった翌年の秋に、聖母の騎士神学校で、ルルドの上の運動場で、運動会が行なわれた。競技に使う為に、永井博士が、アシジの聖フランシスコの絵を2枚描いてくださった。ふすま大の見事な水墨画でした。写真はその絵と、競技後、聖絵の前で祈る競技者・神学生たちです。後日、神学校は火災に会ったが、永井先生の貴重な2枚の水墨画は燃えてしまった。あの絵が今あれば、と惜しまれる。
★永井先生は、私に、個人的に、大きな横長の絵を見せてくださった。崩壊した浦上天主堂の全景だった。私は、その絵を手本にして、同じ大きさに模写した。当時は、終戦直後で、アメリカ軍の憲兵は、原爆で破壊された資料や、絵を公にしないように厳禁していた。持っている者は厳罰に遭うという話だった。私は、それを恐れて、自分が模写した浦上天主堂の墨絵を燃やしてしまった。今、思えば残念な破棄だったと悔やむ。当時は今、想像出来ないほど、原爆の情報は禁止されていた。自由がないのも戦争に負けた結果だった。
★永井先生は、戦後、復刊された聖母の騎士誌に毎号、原稿を載せた。その題目は「隣人愛」「親の勤め」「母性愛」「平和を」「原子野の声」などであった。
★パウロ永井隆博士、43年の生涯。辞世の句「白バラの花より香り立つごとく、この身をはなれて昇りゆくらむ」
★死んでも、あなたのことは、誰かの、どこかに、残る。

2018年5月6日日曜日

5月1日は永井隆博士の命日でした。信仰と平和

長崎・原爆の後、私が聖母の騎士へ入ると、そこに避難していた永井博士がいた。昼間は浦上で仕事をして、夜に帰った。私たち神学生の夜の自習に、よく見えて、中国戦線で医療活動をした話をしてくれた。なぜか、原爆の話は覚えが無い。原爆の後、永井先生は、奥さんや多くの人たちの犠牲を考えて、半年間は髪を切らず、ヒゲを剃らず、喪にふくした。
★翌年の春になって、神学校が中学として開校すると、永井先生は私たちに理科を教えた。人間の不思議な機能を説明した。浦上の大工さんから、小さな家を作ってもらい、「如己愛人(にょこ・あいじん)」から「如己堂」と称した。復興・長崎で一番小さな家だった。
★永井博士は「愛と、命と、赦しが、平和の原点だ」と教えたと思う。愛は、「如己愛人(にょこ・あいじん)」であり、命は、「人は、どのように死んでいくのか」。信仰の中で、神に信頼し、総てを委ねて苦しみに耐えてながら、病状を隠さない、ありのままにガラス張りの戸の向こうに、自分をさらけ出しながら、誰でも見える形で、人間の生き方、死に方を示した。そこが今、永井先生の偉さだったと思う。赦しは、苦難を神の摂理と受け止め、前向きに進もうと、みなに希望を与えつづけた。
★今、この歳になって、どのように死ぬ最後を迎えるのか、絶えず考える。アヴェ・マリアで「今も、死を迎える時にも」と祈るのは、そのためだ。永井先生は、あのガラス戸の中で、見える形で自分の死をさらけ出した。その勇気に今は感動する。
★食事のときに、瀧神父さまに「永井博士」の話を語りかけた。瀧神父さまは、中学・高校生のときに、永井博士の本を読み、数冊の後、最後に「滅びるものを」を読んで、信仰に導かれた、と言った。永井先生に信仰の影響を受けた人は多い。
★5月1日は、パウロ永井隆博士(原爆・医師)の命日だった。昭和26年(1951年)帰天された。67年になる。何年経っても永井先生の事は忘れない。

2018年5月5日土曜日

誕生会。元気なのが一番です。瀧神父さま、87歳


月の最初の土曜日は、楽しみにしている「誕生会」だよ。5月に誕生をお祝いする人は6人いた。その中には、100歳を迎える女性もいた。車椅子だが、お元気です。車椅子で、ホーム内を自分で、回遊するのが楽しみでもあり、健康の秘訣です。
★瀧憲志神父さまも誕生会を祝いました。87歳になる。来年は米寿だよ。
★誕生会の楽しみ、期待は、職員さんによる出し物です。ごらんの通り、3人さんが、ぬいぐるみを着て、タンバリンを持って、踊りました。「キラ、キラ、タンブリナ」の音楽に合わせて、軽快に踊りました。みんなを楽しませてくれて、ありがとう。ごくろうさま。
★瀧神父さまは、みんなが歌う「ハッピバスデイ」と拍手の中で、山内園長神父さまからお祝いのお花とオミヤゲを貰いました。今日の喜びの写真です。大曾神父さま、91歳。瀧神父さま、87歳。入江さん、93歳。元気なのが一番です。
★自分たちの修道会で言えば、一番の年長は、93歳のヨハネ村山修道士(入院中)、次が大曾神父さまになる。次にトマ修道士の90歳。2人置いて、瀧神父さまになります。ホームに居る私たちが、神さまの恵みと祝福のうちに、奉献生活をつづけられるようにお祈り下さい。

2018年5月4日金曜日

谷村達郎神父さまの葬儀・告別式に参加して祈る

故・アルナルド谷村達郎神父さまの葬儀・告別式。1941年11月、滋賀県大津市の生まれ。友人が長崎へ旅行へ出かけて、ポーランド人の修道士から「聖母の騎士」誌を貰ってきた。それを友人から見せられたのが、洗礼につながる。22歳のとき、本修道会に入会した。32歳で司祭に叙階される。45年の司祭生活だった。享年76。葬儀・告別式は長崎の聖母の騎士で行なわれた。20数人の司祭が共同ミサを捧げた。右の写真は、霊柩車が出発する場面です。向かいに聖コルベ館がある。その奥には見えないが、幼稚園がある。谷村神父さまの最後の職務は幼稚園の園長だった。
★ホームからも、瀧神父さま、トマ修道士、それに信徒たち、合わせて9人が葬儀に参加して、神父さまの冥福をお祈りした。司式は竹内昭彦管区長神父。説教で「人生の豊かさは、人との出会いと、愛。自己から他者へ。そこに喜び。笑顔と語りかけ。谷村神父さまは、そういう司祭だった。そこに人の輝きがあり、豊かさになる」との意味の内容を語られた。まさに谷村神父さまは、その言葉に適する人だったと納得した。
★ホームを朝、9時に出発して、帰ったのは午後3時だった。76歳、まだ若すぎる。寂しさを、ひし、ひしと感じた。

2018年5月3日木曜日

1年3ヶ月前の谷村神父達郎さま。お別れ、長崎へ

ホームから、山へ5Km程入ると、森林に囲まれ「いこいの村」施設がある。宿泊、入浴、食事が出来る。広いテニス・コートも設備されている。ホームの窓からも望遠できる。
★去年の2月、冬。ホームから10数人が、入浴のため、ここを訪れた。大きな風呂から上がると、ゆったりとした気分になる。一息ついた時、同行していた谷村神父さまを見て、(神父さまと、2人きりで写真に撮りたい)と意識した事を、はっきり覚えている。これが、その時の写真です。「神父さま、いい顔、しているね」。冬だから、寒いし、山の上の場所だから冷えもある。トマの服はご覧の通り重装備。それに比べて谷村神父さまは、シャツ1枚、気軽で、愉快に笑っていた。
★谷村達郎神父さまの、この表情。雰囲気がそのまま出ている。優しく気軽に語りかける谷村師を、そのまま表現している。ホームで、2人で撮った写真は、これだけになった。この写真を見れば、谷村神父さまを、いつまでも思い出すでしょう。
★午後2時前、長崎から葬儀社の車が玄関に到着した。ホームの皆さんが集って、山内園長神父さまの先唱で「アヴェ・マリア」を祈りながら、お棺を乗せて、車が見えなくなるまで、皆は悲しみの中で見送った。谷村神父さまは、ホームの人たちと、よく語らいを楽しんでおられた。ホームの皆さんの胸は悲しみに震えていた。
★ホームで司祭を見送ったのは、故・ピオ中島優神父さまと、2人目になります。今夜は、長崎・聖母の騎士でお通夜があります。明日が葬儀・告別式です。お祈り下さい。

2018年5月2日水曜日

島原を巡礼した時の谷村神父さま。優しい人柄

懐かしい写真です。2016年12月の年末、高原修道士の運転で、トマと、谷村神父さまと3人で、島原を巡礼した時に写した。後ろの建物は、島原市・カトリック教会、殉教者の教会です。この時、島原のシスターの修道院に1泊し、夕食は島原教会の主任司祭もご一緒でした。次の朝、この教会で、主任司祭と共に、谷村神父さまもミサを捧げました。恵みの思い出です。
★谷村神父さまは、穏やかな気持ちの人柄で、誰にでも寄り添って、気楽に声をかけてくれる。一緒に居ても楽しい神父さまでした。
★トマが入院中も、度々顔を見せて慰めてくれた。ベッドの足元に居る谷村神父さまの姿が浮かんできます。また神父さまは、各家庭や、各個人なども訪問されて、司祭としての祝福や、祈り、喜びを与えていた神父さんだった。
★アシジに暫く滞在された頃には、アシジからの便りを、マンガの自画像を入れて、送ってくれた。
★谷村神父さまに「つながる」人は多く、ホームで静養する神父さまを、遠方からも、見舞いに来られる人が多々居られた。
★谷村神父さまのご遺体は、湯江教会に安置されている。いま、ご遺体と写真の前で、ホームの信徒たちはロザリオと夕べの祈りを捧げたところです。ご遺体は明日、長崎・聖母の騎士へ移されます。どうぞ谷村神父さまの安息のためお祈りください。

2018年5月1日火曜日

谷村達郎神父さまがホームで、神に召される

明るい表情で、気安く誰にでも話かけ、皆から慕われていた「アルナルド谷村達郎神父」さまが昨夜、ホームで神に召された。谷村神父さまは2年程前からホームに入居しており、体調を崩して入院されたが、退院して、ホームの自室で看護を受けて、療養をつづけておられた。谷村神父さまが逝去されて、寂しさを感じている。
★今日、午後3時から、湯江教会で、ホームの皆さんと「お別れの会」が行なわれた。信徒の皆さん、聖母の騎士修道女会のシスターたちも多く参加されて、永久の安息を祈った。司式した山内園長神父さまは、「とにかく優しい神父さまだった」と強調し、神父さまの足跡を語った。
★昨日の夕食の後で、瀧神父さまと、トマは、谷村神父さまを見舞った。目をあけて、安らかな息をされていたが、言葉は出なかった。「主の祈り」「アヴェ・マリア」の祈りを唱えると、少し口元が動いたかに思えた。瀧神父さまが祝福を与えた。手を握ったが、手ごたえがあった。祈りも、言葉も聞こえておられると感じた。
★親愛なるアルナルド谷村達郎神父さま、お別れは辛い。どうぞ神さまの御国で、私たちを見守ってください。
★お通夜、葬儀・告別式は長崎・聖母の騎士修道院・教会で行なわれる。