2018年12月31日月曜日

大晦日。今年も終わる。日記読者の皆さんにご支援をありがとう

今年(平成30年)も最後の日になった。
★今年で一番嬉しかったことは何か。思いがけずポーランド政府外務省から「べネ・メリト勳章」を戴いたことでしょう。「寝耳に水」の受賞でした。2人目の受賞だそうで、もう1人は、ポーランド文学研究の日本人の学者です。受賞は有り難いことです。
★次は、NHK・テレビ長崎で、夕方の番組、ニュースの「特番」で、「日本26聖人の映画」が紹介されたことでしょう。私が念を入れて取り組んだ「26聖人映画」が、まとめの意味で、公に紹介されたのは、嬉しい限りでした。
★ホームから中々屋外に出られませんが、父の故郷、外海・黒崎に帰り、墓参りをして、教会で祈りました。これも心に掛かっていたことで、果たしたのは嬉しいでした。来年も、いい年になるよう祈ります。
★退院してから、毎日の日記には、入院中の苦痛や、反省や、思いなどを書いてきました。しかし退院後の「からだ」の調子は、どうでしょうか。26日に退院して、今日で、6日になります。実を言えば、「からだ」の調子が余りよくないのです。
★毎朝のミサは、6時からです。朝ミサは休んでいます。ミサ後、6時45分頃、瀧神父さまが自室に来られて、御聖体を拝領させて下さいます。今朝も、そうでした。「トマ、ムリ、するなよ」
★ただ、食事だけは、食堂で、今のところ、皆さんと一緒に食べています。今夜は、年越しソバが出るでしょう。
★日記を読んで下さる皆さんには、支え、見守り、祈って下さって、本当にお世話になりました。小さな記事で、読む方も少ないですが、「書くことが、生きるチカラ」と、これからも努力します。有り難うございました。

2018年12月30日日曜日

退院の日のお恵み。一杯の水の奇跡。恵みは大河の広がりを持つ

今度の入院の予定は、2泊3日だった。それが、3倍の9日間になる。いかに苦痛が多かったか、日数を見ても分かる。
★退院の日の午後、ホームにフランス人のジャムさんが訪ねてきた。大きな喜びであった。湯江教会の「馬小屋」で写した。
★ジャムさんに出会うのは、これで3度目。最初は聖コルベ館で、酷暑に「一杯の冷たい水」を差し上げた。2度目は私がホームに入所したのを知って、2017年7月、訪ねて来た。そのとき「トマさんのことば」を進呈する。ジャムさんは、この小さな本が気に入ったらしく、フランス語で出版した。ジャムさんは日本に5年ほど会社勤務をしており、そのとき知り合った「りか」さんと結婚。2人の子供にも恵まれた。しかしフランスに帰国後、「りか」さんが難病を発症。ジャムさんは闘病と介護に全力を尽くした。「りか」さん、洗礼を受けて神に召された。「マリア・りか」さんの天国へ旅立ちで、ジャムさんは打撃を受けたが、彼の人生は大きく転換した。介護に尽くしていた時間を、教会のため、青少年育成のため活動するようになった。「トマさんのことば」が、フランス語版になったのも、その1つの働きだった。
★3度目。退院の日に出会う。退院でもあり、私にとっては大きな喜びとなった。早速、ジャムさんのフランス語版の費用の捻出方法や、読んだフランス人達の反応が聞きたかった。詳しく聞いて、やっと、その念願を果たされたと、私も満足した。退院の日は、いい日になった。
★この日の訪問は、ジャムさんにとって、もう1つの大きな出会いがホームであった。ホーム聖フランシスコ園で長年働く岩田夫妻と、その家族との計り知れないお恵みである。ぜひとも、それを記したい。ホームの応接室で、ジャムさんを囲んで、その人たちが再会し、笑いと、感謝と、喜びに湧いた。湯江教会の浜田神父さんと、ホームの瀧神父さんも同席し、喜んでくれた。
★2014年、ジャムさんは、ヴァチカンの大広場で、大群集の中に、日本語で話している2人のシスターを見つけた。近寄って、日本語で話し、顔見知りになる。ローマ留学中の(同じ会の)シスターたちだった。
★2015年、そのシスターの1人が、同じ会の、別のシスターを連れて、フランス・トゥールーズのジャムさんを訪ねた。連れられて、ジャムさんに会ったシスターは、ローマ留学を始めたシスターだった。そのシスターこそ、ホームの事務長、岩田夫妻の娘、シスター架耶乃(かやの)さんである。
★2017年、フランスのジャムさんは、ヨハネ・パウロ二世の列聖式に、どうしても参加したい心が燃え上がり、ヴァチカンへ。あの大広場で、何と、シスター架耶乃さんに出会った。計らいか、お恵みか、ふしぎな「きずな」が出きた。
★2017年9月、シスター架耶乃さんが、休暇で、長崎へ帰ってきた。ホームの私の部屋を訪ねてくれる。そのとき、ジャムさんの話をシスターから聞いて、おどろいた。「え?なんで、こんな『つながり』が出来ているの」
★2018年7月、事務長の岩田清光さんと、ホームで介護職員の妻・幸恵さんは、夫妻で休暇をとって、初めての海外旅行へ出かけた。そのとき親友の納富美紀さん(元・聖コルベ館勤務)も同行した。3人はローマに着いて、シスター架耶乃さんの充分な案内と、世話を受ける。ローマ、ヴァチカン、アシジ。そしてフランス・ルルドへ。ここで活躍したのが、ジャムさんだった。親切に、くまなく説明し、案内した。巡礼の恵みと、深い感動を倍加したのは、ジャムさんの活躍のおかげだった。その意味で、ホームの応接室に、皆さんが集って、喜びを爆発させて、和気あいあい、楽しみを分かち合ったのだった。
★この一連の流れを見て、トマは思う。「一杯の水を与えれば、恵みがある」。あの冷たい一杯の水が、細い川の流れから、広がって、ごらんなさい、皆さんを含めた大河になって行った。これぞ恵みじゃないですか。更に、トマは思うのです。このような出来事は、トマの、長ーがい人生にも、そう度々は起こらない。ただ、この1回しか起こらなかった。今は、神さまに、かんしゃ。

2018年12月29日土曜日

入院中、瀧神父から御聖体を拝領。コルベ神父は病人を大切に

主の御降誕の祭日。病室で迎えた。瀧神父さんから「午後2時頃、御聖体と共に来る」と携帯に知らせがあった。
★午後、待っていると、瀧神父さんと、高原修道士さんが現れた。私はベッドに横に座る。瀧神父さんが近くに寄る。最初に私が言った言葉が「すまん、な」
★すると瀧神父が即座に応じた。「イヤ、イヤ、これは司祭の務めだ。コルベ神父まさが言った。病人の苦しみが、ニエポカラヌフ(ポーランド・日本のコルベ神父の修道院)を支える。宣教を支える力になっている。コルベ神父さまは病人を、とても大事にされた」。もちろん私も知っている実話だが、瀧神父さんから、直ぐ出た言葉に、あらためて感動した。
★御聖体を拝領した後、椅子に腰掛けた瀧神父さんに、トマが言った。
★「コルベ神父の生き方、死に方。ゼノ修道士の生き方。カシアノ修道士の生き方、死に方。彼は生涯、炊事場。その彼が最後の日にも夕食を作って、一緒に食べて、自室へ戻って、その夜、亡くなった。聖ヨゼフの篤信の信心家だった。聖ヨゼフが迎えに来た。トマには、聖コルベが、ゼノが、カシアノの生き方、死に方が、真実の出来事として、本物として、ドン、ドン、我が身に飛び込んできた。この身に、深く染み込んできた。これが真実なんだ。本物だ。だからトマは、彼らが信じたものを、信じ、希望し、愛したものに、付いていく。それが自分の道だと、はっきり分かった」
★瀧神父が応えた。「トマよ、今度の入院で、大きな恵みを受けたな。元気な声で、トマの話が聞けて、よかったよ。声も大きく、安心した」。瀧神父さんは、足は、ヨロ、ヨロしながら、高原修道士の介添えで、これから長崎の「兄弟の集い」に、と去った。
★彼らが帰った後で、トマは思いめぐらした。
★自分は、今までの生涯において、自分が本当に体験し、触れて、見て、真実なものを信じたい。本じゃない。人の言葉でもない。自分が本当に受け入れたものだけが、トマには真実だ。ポーランドへ10回。ダテじゃない。毎度、あの餓死室の中で、祈った、壁を触れた、コルベ神父の空気を一杯飲み込んだ。それが、ボン、ボンと、トマに身に入ってくる。
★命を助けられた男性にも3度会った。「ジンクーエン(ありがとう)」。言わなかったのが一番残念。しかし聖コルベは、優しく「ほほえみ」で、安心しなさい、見詰めながら連行されて行った。男性はトマの前で、3度涙を流した。その男性の現実も、聖コルベの「お礼を求めない愛」の現実も、ドン、ドン、トマに入ってくる。これは真実だよ。
★ゼノ修道士の生き方。トマが原爆後、聖母の騎士で最初に迎えたのが、ゼノさんだった。そのゼノさんの生き方。貧しい人のため全ての愛と、生きる力を与えた。師父聖フランシスコの行動力です。こうしたゼノさんの生き方も、ボン、ボン、入ってくる。
★カシアノ修道士の生き方、死に方。これも凄い。トマが小神(高校生)のとき、カシアノさんはポーランドの雑誌から聖ヨゼフの記事をローマ字で原稿を書いて、トマの処へ持って来て、日本語に訳すよう頼んだ。月に1度、夜の小神生の祈りの後で、「聖ヨゼフの御働きと御徳と実話」の記事を読んでいた。100人からの小神生がいた。この記事は、後に本となる。カシアノさんの聖ヨゼフへの篤信の信心に惹かれる。それが優しく、トマの現実が入ってくる。
★なぜ聖コルベが命を捧げたか。捧げた御方が居たからです。その御方に完全に倣いたい。そのためには「けがれなき聖母」を通して行けば、最も近道になる。「マリアを通してイエスへ」。それが聖コルベの生き方だった。聖コルベや、ゼノ修道士、カシアノ修道士の生き方に従いたい。本物だからです。
★ありがとう、聖コルベ、ゼノさん、カシアノさん、本物を自ら見せてくれて、ありがとう。あなた達の生き方、死に方に、真実、真理がある。それにトマも従って生きたい。この入院中の苦しみ、痛みの中で知りえた、弱いトマだが、しっかり、付いて行きたい。

2018年12月28日金曜日

入院・苦しみの中で修道者は何を感じたか。アンパンの恵み

手術の後、からだには、着物形式の病院衣だけ。中は裸。思えば、腎臓からボウコウへ、クダがつながり、ボウコウからベッド横の袋まで、クダがつながる。「おかしな人生や、な」と思いますよ。
★全く動けない。自由がない。助けが必要だ。でも、誰も居ない。どうすりゃいいんだ。
★「今、一番欲しいのは、『黙って』ソバに居てくれる人です」。でも居ない。
★夜は悪寒にふるえた。深夜は反対に発汗して、看護師さんの助けで病院衣を着替えた。
★やっと朝があける。目覚める。今度は朝食に苦労した。朝食を、机に、ポンと置いて去った。別の看護師か、歯磨き一式を、ポンと机に置いて去った。後は自分で生きるしかない。先ずベッドの角度を変える作業。ボタンを押して、頭と背中を持ち上げる。あまり上げると、枕の横の「Cパック=無呼吸機械」が、ずり落ち、水がこぼれる。ある程度まで角度を付けて、横の机を、なんとか苦労して腹部の前まで引き寄せた。「さあ、何を食べようか」。食欲はない。一番食べやすいもの、それが「アンパン」だった。これなら、イケルぞ。
★「アンパン」を食べながら、つくずく思った。ホームの入居者は、3人、5人と介護職員が付いて、食べさせてもらって、面倒をみてもらって、オレの今を見たら、本当に幸せだよ。入居者は「ありがとう」と「ほほえみ」の1つでも返せよ。
★毎朝、食卓にホット・ミルクが出る。「アンパン」とホット・ミルクを交互に飲みながら、今度は自分のホームでの考え方、生き方を振り返った。自省した。修道者は老いると、自分も含めて、老後は立派なホームに入り、充分な介護を受け、静かな恵まれた余生を楽しみたい。叶えれば有り難い。感謝です。しかし今度の入院の苦しみで分かった事がある。修道者は、ホームの安泰が最後では、ない。
★生涯生きた「修道者」とは何ですか。主への「奉献者」です。奉献者とは何ですか。イエスの道をゆく者です。主イエスは、どんな模範を示して下さった、か。「殉教者」です。ならば奉献者も「殉教者」にならんと、奉献した「意味がない」。価値もない。修道者はホームで普通の生活をして、それが最後でない。入院して、苦しみ痛んで、孤独に落ち、寂しさに耐えても、「殉教者」の覚悟がなければ、奉献した「意味がない」
★今度の入院で、ホームの普通の生活の奥に、修道者・奉献者である事の意味を確認した。だが、ここで言えるのは「人間は、弱い存在です」。自分のチカラで、殉教者になれるのではない。成れません。弱さ、だけです。主の御助けが有って、心は燃えてくる。その「弱さ」と「燃える心」をつなぐのが、私たちの「祈り」です。これしかない。
★ホット・ミルクの後で、みそ汁も食べた。小さなトーフが入っていた。箸で、つまみ、そこねて、1つ小さなトーフがコロ、コロと、どこかへ落ちた。看護師か入って来たので「落ちたよ」と告げると、看護師は背をかがめて、ベッドの下を探していた。「ないよ」。そして私と看護師は大声で「ハハハ」と笑うのだった。
★修道者は、ホームの普通の生活の下層に、殉教の意味があり、その最下層に、人間の弱さ、祈りがある。それを、はっきり確認できたのは、今度の入院のお恵みだった。ミソ汁の後で、小皿の盛った野菜も食べた。結局、二度炊きの米だけを残した。机には、もう1つアンパンが残っている。次の日に食べよう。高原さん、ありがとう。よかったよ。
★看護師が来て、「クダを抜きますよ」。消毒して、看護師が言った。「いいですか。言った通りにして下さい。ハイ、大きく息を吸って、『フーゥっと、ゆっくり吐いて下さい』」。その時、スーッと、抜けた。うまい、お見事。
★ああ、これから、自由に、歩ける、喜びに満たされた。

2018年12月27日木曜日

入院中、3つの「ムチ」で、ビシッと、やられる。苦しみは恵み

先週、日曜日からカゼ気味だった。火曜日に予約の入院があったので、特に、からだに気をつけていた。
★火曜日の午前中に、高原修道士さんの介添えで入院。担当は、ごらんの看護師さんだった。熱は7度2分。大丈夫かと不安になる。午後、先生に外来に呼ばれ、説明の後、すぐ外来の処置室へ。「ボウコウに、石があって、ステントが抜けない。ここには石を粉砕する道具を置いていないので、中止」と言われる。気合抜けというか、失望感というか、その夜は、熱が、7度4分、7分、8度と上がり、ついに8度4分にまで達した。先ず、最初、1度の「ムチ」で、ビシッと、やられる。
★次の朝は、8度4分の熱が不思議に7度に下がっていた。これには、ちょっと驚いた。小さな奇跡の恵みさえ覚える。その日は、さすがに休養し、心電図、心エコー、腹部のCTを撮影した。次の日が木曜日。午後2時頃、先生から外来へ呼ばれる。浜田神父さん、高原修道士さんも同席した。先生から、CTの断面写真を見せながら、詳しい説明を聞いた。「ボウコウの石は排除しても、ステントの先の腎臓にも石がある。うまく、ステントが抜けるか、わからない」。厳しい判断だった。一旦、病室へ戻る。そして、いよいよ3時過ぎ、車椅子で手術室へ。改装された立派な手術室だった。準備は整い、顔の前に青色の幕を垂らされ、いよいよ麻酔へ。エビのように曲がるが、先生の麻酔が、どうしても入らない。隣の手術室から専門の麻酔医師が来て針を刺すが、これも入らない。懸命に、ガマンし、耐えていた。ついに出血が出はじめて、手術は中止となった。車椅子で病室へ帰ってきたから、浜田神父さんも高原修道士さんも驚いた。トマの方が、ショックだよ。ガックリきた。2度の「ムチ」で、又またビシッと、やられた。
★翌、金曜日。午後4時に手術の予定が決まる。3時頃に、浜田神父さん、高原修道士さん、木村明子さん、3人が来る。4時になっても呼ばれない。病室は静かで、会話は全くなく、4時半になっても、まだダメ。イヤーな感じが漂った。4時50分、呼び出しがかかる。車椅子で病室を出る。トマは3人に「シッケイ」と、手を上にかざして笑った。手術室が並んでいる。10室もある。奥の方、9番目の明るい部屋に入った。先生は待っていた。今度の麻酔は、お尻穴から20cmほど上の辺りに、一発で入った。何度か麻酔薬を足している感じがした。完全に、ヘソ以下の部分が麻痺する。1.5cmの石を砕く音、10分位は響いたであろう。コンクリートの道路を修復のためドリルで、ガ、ガ、ガと壊すのと同じだ。トマにとっては3度の「ムチ」で、これまた、ビッシと、やられる。すると「ウ?、ム?、腹の辺りが、なにやら、ムクムク」。先生が「抜きますよ」。スーッと「抜けましたよ」。手術室に歓声があがる。腎臓にステントを引き止める石の影響はなかった。「先生、ありがとう」「ハイ、おわりましたよ」。安堵の中、ベッドに寝せられて病室へ。木村明子さんがちょっと顔をみせ、高原修道士が残っていた。
★その夜は全く動けない。腎臓からボウコウまでクダがあり、ボウコウからベッド横の袋までクダがある。この格好を考えれば、笑っちゃうよ。8時半から水だけが飲める。1人で寝たまま、水が飲めるように、机を引き寄せ、高原修道士さんに、小瓶の水と、ボトルの水を買ってきて貰った。「楽飲み」も手の届く所に置く。高原さんは、もう帰りたい、その気配。その高原さんに「高原さん、もう1つお願い。アンパンを2個、買って来てください」。そう言われて高原、迷っている。部屋を何度か歩いた。「帰りたい、でもトマも」。心境も分かるよ。高原は居なくなった。しばらく経って高原さんが戻り、アンパン2個を机の上に置いて、帰った。
★この「アンパン」が、次の朝、特異な経験から、トマが、今までのホームでの考えを大きく変える恵みとなった。苦しみの中で体感した「ホンモノ」の、底辺に行き当たった思いがった。「アンパン」の袋の裏には「本社で選り抜いて作ったアンコ」と書かれていた。

2018年12月26日水曜日

無事に退院。皆さんの祈り、支援に感謝。フランス人お客さん

病室へ高原修道士さんが早々と来る。手続きを終えて、午前10時頃に病院を後にした。久しぶりの風を一杯に吸う。
★ホームで、皆さんから喜びの声をかけられる。昼食は食堂で、皆さんに挨拶しながら、自分の席へ。「ああ、やっぱり、ホームの食事が、いいなァ」
★午後2時半、フランス人のジャムさんが来る。聖コルベ館に勤めていたとき、暑い夏だった。1人のフランス人が見学に来た。トマは、冷たい水を差し出した。喜んで飲んだ、その人がジャムさんだった。「一杯の水を与えた」者は、その事も、すっかり忘れていた。トマがホームに入居して、その事を知ったジャムさんが、わざわざ訪ねてきた。ちょうど「トマさんのことば」という小さな本を出した所だったので、1冊差し上げた。前は、水だっが、今度は、本だ。
★フランスに戻ったジャムさんは、「トマさんのことば」をフランス語に翻訳して出した。ジャムさんとは深い『きずな・つながり』を感じる。その本について、大いに語り合った。原爆は知るにしても、コルベ神父、ゼノさんなどは知られていない。聖母の騎士のルルドの写真を見て「え?ニホンにも、ルルドがあるの?」。ジャムさんは、フランス・ルルドの近くに住んでいる。
★今日、出会うのは、3度目。退院が出来て、ジャムさんに会えて、本当に喜びと、感謝の日でした。入院中は、キツかった。でも、日記を読んでくださる皆さんからの祈り、支え、力を受けて退院が出来ました。本当に、ありがろう。病院での思い、反省、恵みなどは、追々書かせてください。

2018年12月25日火曜日

入院中のトマより

入院8日目。御降誕祭。お祝いとお祈りをベッドの上で捧げます。午後、ご聖体拝領が出来ると携帯に知らせがありました。
今日は平穏に過ごしています。明日、午前中に退院出来るでしょう。

2018年12月24日月曜日

入院中のトマより

入院7日目。今度の入院は、からだに大変な"ムチ"を受けました。昨日は1日中微熱が続きました。
今日の調子を見よう。退院はどうなるか?

2018年12月23日日曜日

入院中のトマより

入院6日目。昨夜、夜中の11時に点滴の針が取れました。
今日は自由に歩けるようになりました。回復の兆しが見えます。

2018年12月22日土曜日

入院中のトマより

入院5日目。喜びと感謝。
昨日、午後5時に手術室に入る。腰の別の箇所から麻酔。即座に麻酔が効いた。
膀胱内の石(1.5㎝)を、粉砕機で破壊した。順調にステントを取り出し、新しいステントを入れ無事に終わりました。
術後も平熱で順調です。先生が破壊した大小の石を小瓶に入れて渡してくれた。トマのステントの歴史においては3番目の小瓶になった。
今朝は平熱で良好です。朝の食事もして、大量のトイレも全部出て気持ちが楽になりました。
今日から3連休。連休が終わった次の日火曜日、午前中に退院の予定です。主の降誕の祭日です。お祈りを有り難うございます。

2018年12月21日金曜日

入院中のトマより

「シンボウ」「シンボウ」が、本格的になりました。
今は「キリョク」「気力」が、支え。
午後4時過ぎ、処置室に入ります。お祈り下さい。

2018年12月20日木曜日

入院中のトマより

入院3日目。手術室に入ったが腰椎麻酔が入らず、麻酔科の先生も参加したが入らず、何もせずに病室に戻って来た。次にどうなるか、続いてお祈りお願いします。

2018年12月19日水曜日

入院中のトマより

昨日、ステントの入れ替えの処置を行いましたが、問題があり処置は中止しました。再び手術を行います。無事をお祈りください。(トマさんの代筆)

2018年12月18日火曜日

今日は、長い一日になる。流される「ささ舟」のように任せる

昨夜は悶々として、眠りを忘れたかのように、寝付かなかった。朝方、少し眠ったようだった。眠れていないせいか、アタマがボーッとして、起床時の体温は6度6分あった。大きなバッグ2つに、時々はベッドに休みながら、荷物を詰め込んだ。
★今日の一日は、どのような日になるのだろう。カゼ気味という負担もある。長い一日になるだろう。
★手術台の上に、腹部を天上に向けて、両手を大の字に伸ばす。1方の腕に、血圧計。もう1つの腕に点滴。両足は開いて、高く上げる。その姿を、自分が自分の状況を見ると、まさに「十字架」そっくりです。「十字架を、身近に、意識して、追従しれおります」。これが心境です。麻酔は打つものの、尿管から、カメラを入れる、ゴム管を入れる、そりゃ平常心では居れません。この手術を受けながら、「主の十字架」を思っております。もちろん私の十字架は小さいものです。
★流れる小川に、流される「ささ舟」。流れにお任せして、我を張らず、素直に受け入れて、今日は流れていこう。
★今日の一日、どのようになるか、み旨を果たせますように、お祈りください。

2018年12月17日月曜日

あすは、おたちか。人生には、ガマン、シンボウが必要です

瀧神父さんが、自室へ来て、声をかけた。「トマ、どうか?」「大丈夫」「サンパツ、な。3バン、取ったから、な」「3番、早やーか、よかったな」
★今朝から、体調が、グーッと、良くなった。看護師さんが自室にきた。6度5分。あしたは、入院できるでしょう。なんとか、切り抜けた感じです。
★朝、9時から理髪屋さんが、夫妻で来た。2番が来ないので、最初にサンパツをしてもらった。正月前の散髪です。サッパリしました。
★日中は、出来るだけ、静かに自室に居た。入院のバッグの準備もある。手伝う人が居ないのが心細い。入院だけなら、ともかく、カゼまで引いて、負担がかかった。人生は、ガマン、シンボウ、必要だと思います。1つ、1つ、波を乗り越えていく。
★あしたは、午前9時頃にはホームを出なければでしょう。

2018年12月16日日曜日

思いがけず、セキ、クシャミ、ハナ水。ああ、安静しかない

介護の男性職員は、半ソデのTシャツで、活動している。羨ましいよ。ボクだって、聖母の騎士の庭から、走って、ルルドの坂道を走って、ルルドの上にある運動場まで駆け上がった行動が、若い頃にはあった。同じ足だよ。あの脚力は、どこへいったのだろう。
★振り返れば、金曜日。寒気がした。体を温めようと、入浴した。夕方になると、ハナ水が何度も流れてくる。土曜日。クシャミに、セキが出てくる。「これは、ヤバイ、な」。看護師さんから「葛根湯」をもらって飲んだ。夕食を終わって、自室でくつろいでいると、介護の男性が「熱、測りましょう」と入ってきた。7度1分あった。血圧が140より高めだった。
★「こりゃ、ダメだ」。土曜日は早めにベッドへ横になった。夜7時半頃、夜勤の男性が、「熱、測ろう」と入ってきた。7度4分あった。(フトンの中が温かいので、上がったのだろう。そんなに無いはずだ)。血圧は110だった。
★日曜日。ミサはお休みした。食事は自室で、外には出ない。日曜日、夜勤明けの職員が、熱を測りにきた。6度7分だった。午前中、看護師さんがきた。熱、6度9分。「ギリ、ギリ、ね」と言った。
★気にしているのは、火曜日の入院、ステントの入れ換えです。「それなのに、この状態じゃ、ね。気になるよ、ね」。日曜日と、月曜日は、安静第一にしよう、と決めた。ごめんなさい。ベッドの上で、ロザリオを唱えます。いま、熱を測ると、6度8分でした。女性の職員が「どうですか?グアイは?」と入ってくる。「アメ、食べなさい」。べっこう飴を1つくれた。「首を、何かで巻いておくと、いいんですが、ね」。ノド枯れを気にしていた。「首を冷やさんほうが、いいのよ」

2018年12月15日土曜日

フィンランドの直美さんから、クリスマス限定チョコが届く

古い写真を見るのも楽しい。3年半ほど前、春だった。ホームに鹿児島から直美さんが訪問に来た。明るい女性。気取ることなく、ザックばらん、の感じ。
★洗礼前に、長崎の教会巡りのツアーに参加。次は1人旅で、「西九州キリシタンの旅」を手に、再び長崎、そして五島の教会を巡礼。聖母の騎士のルルドや、コルベ神父、ゼノ修道士の生き方に感動する。次は「身代わりの愛」を手に、ポーランドを巡礼した。そしてホームに訪ねて来たのだった。直美さんは次の言葉を私に残した。「苦しみの吐き出し口は、マリアさま、イエスさまです。全部、話します。父母に言わないことも、ご像に向かって語りかけます。信仰、あったとき、違った。イエス、マリアが、ソバに居てくださる。神の愛、好きになった」

★それから、どれ程、経っただろう。フィンランドから突然、直美さんの手紙が届いて、「いま、フィンランドで生活している」と書いてあった。びっくりしましたよ。「え?あのお嬢さんがフィンランドに、ギョ」だよ。
★すると今年、2018年1月に、直美さんが、フィンランド人のダンナさんと、直美さんの鹿児島のご家族を連れてきた。また、また、びっくりしましたよ。ダンナさんは背の高い男性でした。赤いセーターが直美さん。ああ、やっぱり変わったか、な。でも、楽しく、わくわく、喜びに包まれていた。メールのやり取りで、結婚へ。ご縁とは、ホントに不思議な出来事ですね。それから時々、フィンランドから手紙やチョコが届くようになった。
★昨日、フィンランドから届いてチョコです。「トマさん、ブログでご近況を読んでいます。待降節のロウソクが灯った写真に温かさを感じました。こちらは例年よりも暖かい冬で、雪なしのクリスマスになるのでないかと思います。既に極夜で、朝は9時頃に日が昇り、夕は3時頃に日が沈みます。日中も曇天で暗いです。最近は日の暗さに慣れてきました。野菜や果物類は冬期は、はぼ輸入物になります。近年は日本食、特に寿司ブームで、私の住んでいる町だけでも3店舗の寿司店があります。フィンランドのクリスマス限定のチョコを同封しました。よい降誕節をお迎えください」
★フィンランド、遠い国からのチョコ、お菓子、直美さん、ありがとう。ご夫妻、お幸せに。祈っています。

2018年12月14日金曜日

何を書こうか、迷う日もある。振り返れば、不思議だな

何を書こうか、迷った。何も浮かばない日だって、ある。朝、9時から入浴した。湯に浸かって、ゆっくりした。慌てたって、仕方がない。以前、書いた言葉が目についた。心を惹いた。だから、きょうは、これを書いた。
★いろいろ、あったよ。長い人生だモンね。昨日は長崎の聖コルベ館へ行ったが、事務室で、私の私物は、未だ、そのままにしてくれていた。棚から、机の引き出しから、みな、片付けた。メモ類など、自分には貴重なノートを車に積んだ。
★いろいろ、あったが、まだ生かされる。22歳のとき、結核の病気になって回復のメドも立たなかった。ポーランド人の院長神父は「見込みが無いから、出ていきなさい」と言った。冷たい言葉だよ。家は無いし、家族は無いし。どうする?わからんよ。すると「捨てる者あれば、助ける者あり」。別のポーランド人の神父が病弱な私を助けて、山の修道院へ連れて行って、養生させた。15年かかって健康を取り戻したとき、先の院長神父は亡くなっていたよ。
★まだ、生かされている。不思議だな。それが実感。「ありがとう」。それしか言えない。「もう、出て行けと言う者は、おらんだろう」
★田川幸一から電話があった。私と同姓同名の若者・大学生。会いに来たいという。「おお、来いよ、来いよ、待っているぞ」。来年3月、長崎大学教育学部を卒業する。「え?もう、そんなに、なったの?」「ハイ」。田川幸一に会うのが楽しみだ。

2018年12月13日木曜日

長崎へ。診察。荒木教授との出会い。哲さん美樹さんにも会う

定期の診察。長崎・ヨゼフ・クリニックへ出かける。朝食は、湯江修道院で食べる。パン、牛乳、リンゴ少々。高原修道士の運転で、ホームを出る。
★午前9時には、クリニックに着いた。待合室に、待つ人、2人。早めに診察室へ呼ばれた。高木先生に、「血尿のこと」「来週、ステントの入れ換えで、入院すること」など告げる。先生には、いつもお世話になっているのに、年末のためか、反対に白い封筒を渡された。「ありがとうございます」
★クリニックから聖母の騎士へ向かう。聖コルベ記念館で、千草さん、蓉子さんのお世話で、荒木先生にお会いした。長崎純心大学の人文学部の教授。カトリック信者でもある。「平和をテーマに研究」されている。永井隆博士の研究。私は、荒木先生にお会いして、コルベ神父の学問的研究を願った。コルベ神父の日本語での論文は全く出ていない。私が長年、収集した資料、テープ、写真などがあるので、それらを参考にして、学術的な枠組みは出来ないでしょうか、希望を伝えた。
★長崎=原爆=平和=コルベ神父。ポーランド=アウシュヴィッツ=平和=コルベ神父。コルベ神父は両方に関係している。私の、被爆体験と、コルベ神父の愛の身代わり、そこに真の平和への証がある、と先生に語った。聖コルベ館の資料室も見てもらった。荒木先生との面会は、有意義な時間でした。
★聖コルベ館で、野々村哲さん、塩沢美樹さん、2人にも出会った。2人には、別のお願い事をした。
★12時頃に終わり、ホームへの帰路に高原さんと昼食をとった。2時過ぎにホームへ戻ったが、疲れました。今日は、少々、ムリをした感じがします。

2018年12月12日水曜日

度々の血尿ショック。こうなったら、もう、お任せします

血尿したのは、何年ぶりだろう。2006年、初めての血尿ショック。腎結核と診断された。強烈な薬害で、やる気の喪失感、不眠、高血圧に苦しんだ。2009年、また血尿のショック。ボウコウ・ガンと宣告された。入退院を繰り返し、強烈な治療で苦しんだ。2012年、尿が全く出なくなる。ピンチだった。腎臓の異物を取る手術をしたが、ダメ。そこで「ステント」を入れ始めた。その後は、定期的に、ステントを入れ替えるだけで、健康は安泰であった。
★2018年・年末、今度の血尿ショックは思いもかけず、突然の出来事だった。こうなると「あきらめ」とうか、「どこまで行くんだ」。そんな気持ちがした。
★諫早総合病院で、尿検査の表を、泌尿器科・受付に出して待った。待合室には10数人が静かに診察を待っていた。高原修道士さんに「飲料水を買ってきて下さい」と頼む。水分を充分に取りたい。診察は呼ばれるまで長い時間、待った。2度、トイレに行く。2回とも、血尿はなかった。気分が楽になる。
★やっと、お医者さんから名前を呼ばれた。3室で診察がある。一番奥の診察室だった。主治医先生は、尿検査の結果をみて言った。「膀胱炎です。薬を飲んで下さい。ガン、潰瘍など詳しい検査は、今日の尿から調べます。ステントを入れているので血尿も起こり得ます。来週は入院ですよね。心配なら今日にでも入院しても構いませんよ」「いいえ、いいです。膀胱炎と先生がおっしゃるなら、様子をみます」
★トマは疑い深いので、帰りのクルマの中で、色々余分な事を考えた。「これまでステントは入れているのに、なぜ血尿は無かったのか。1度、膀胱炎になった事がある。あの時、血尿しただろうか?覚えないな」。クルマに揺られながら、これから、どうなるのか、不安があった。
★この後は、「み旨にお任せしよう。主よ、我が人生を支え、導いて下さい。みむねの、ままに、生きつづけます」。皆さんに、ご心配をかけて、沢山のコメントも頂いて、つづいてのご縁をお願いします。
★病院の後、昨日も、今日も、血尿は、出ていません。普段通りの生活をしています。明日は、長崎・ヨゼフ・クリニックへ定期の診察へ行く予定です。

2018年12月11日火曜日

突然の出来事が、今朝、我が身に起こった。ドウシタ、ドウシタ

腎臓は、左の腎臓が1つだけ。ボウコウは、ガン。腎臓からボウコウまで、管・ステントが入っている。これが私の内臓の状態です。
★今朝、ミサが終わって自室へ戻る。トイレの入って、尿を出した。「あれ、あれ、なんじゃ、こりゃ」。トイレの水が真っ赤に染まった。「ああ、これは、アウトだな」が実感。「九十にも、なったんだ。あわてず、ゆっくり、やろうじゃ、ないか」と思っていた。突然、このアリサマ。この状態を見せ付けられて「ギョ、ギョ、ギョ」だよ。
★朝食は平静を保って、当たり前に食べる。朝食後、食堂に残っていた看護師さんに事の次第を報告した。「総合へ行きたいです」。9時に、もう1人の看護師さんが出勤する。お任せした。「直ぐに、来て下さい、という事です」。トイレへ入った。まだ赤い。心を決めた。いつでも入院出来るように、水色のバッグは入院で使う品々を用意してある。黒のバックは、空っぽ。これに着替えを詰めた。準備は万端。2つのバッグをベッドの上に乗せて、残した。
★高原修道士さんがホームの車を玄関にまわして、待っていた。雨がしきりに降る。さびしい雨だ。クルマの中では無言がつづいた。暗い気持ちになる。血尿して、明るく、ハハハと、笑えと言ってもムリだよ。諫早総合病院に近づくと、駐車場が満杯で、100mもクルマが並んでいる。1人、降りて、ビニール傘を頼りに、歩いた、歩いた。足は、フラ、フラ、「生きろ、生きろ」と我が心に声をかけた。
★泌尿器科の受付へ行くと、連絡が付いていた。検査科へまわる。紙コップを渡された。トイレで尿を取ると、「ああ、やっぱり、まだ赤い」

2018年12月10日月曜日

ホームの介護男性職員が、湯YOUマラソン大会で、ガンバッタ

今どき、あち、こちで、マラソン大会が行なわれている。島原半島の小浜温泉(雲仙市)でも、「第42回・湯YOUマラソン大会」が実施された。我らのホームの介護職員の若者が、「じゃ、我も、我も」と、温泉マラソンに出場して、好成績をおさめた。共に、喜ぼう。
★小浜温泉(雲仙市)は、江戸時代から有名な湯・湯治の温泉で、温泉温度は105度。それにちなんで105mの足湯もある。毎年、花火大会と、マラソンが行なわれているが、今年、初めてマラソンに、4人の職員が参加した。ホーム勤務の休憩時間に走って、体を鍛えて臨んだ。
★約800人が参加する。5Km、10Km、20Kmと、3つのコースがあった。初めてなので、3人は男子(19歳ー39歳)の5Kmに走った。大勢が走ったが、写真の松村さんが2着になって、賞状とトロフィーを貰った。よかったね、このエガオ。後の2人も、6着と、11着の好成績でした。
★松村さんは昨夜、夜勤でした。夜、7時頃に各部屋をノックして、声をかけて回る。私の部屋へ来るなり、「賞状、もらったよ」と嬉しそうに見せた。「じゃ、写真に撮ろう」「いや、待って。あした、他の職員も来るから、一緒に撮ってもらう」
★それが、右の写真でした。20Kmに挑戦した、残る1人の西田さんが、写真に写っていないのがザンネンです。西田さんは19番目の好成績でした。ホームの職員は、こうして体を鍛えて、今度は愛情をもって介護に専念するのです。
★右の写真の名前を言えば、左から、田中さん(未婚)、松村さん(既婚)、青木さん(未婚)。「後は、よか、よめさん、いないかなァ」。皆さん、介護はマジメにやっています。足りないのは、ヨメさんです。
★ホームの職員は、女性が多い。男性の介護は、この4人のほかに、事務長と、年配者を除けば、2人居るだけ。男性は、肩身が狭いが、やる時は、走って、上位入賞さ。頼もしい男性職員さんたちです。
★ホームの職員さんたちを、男性も、女性も、応援してください。私たちは、皆さんにお世話になっています。

2018年12月9日日曜日

長生きの秘訣は「きょう・いく、きょう・よう」。それは確かだ

待降節第2主日。朝のミサ。祭壇の前のローソクに、2つの灯がともされた。主の降誕が近づいているのを感じる。
★昨日は、8日。誕生会を日記に書いたが、教会では「無原罪の聖マリアの祭日」をお祝いした。ミロハナ神父の教えによると、コルベ神父は、この祭日を最も大切な出来事として迎えていた。コルベ神父がこだわったのは、「けがれなき聖母=インマクラタ」だった。このタイトルを常時、使っていた。コルベ神父は、マリアの呼吸で生きていた。
★コルベ神父の言葉「私が、マリア、マリアというのは、マリアの心をもって、イエスを愛したいからです」「けがれなき聖母のために、私たちは喜びをもって全てを行ない、喜びをもって苦しみましょう。私たちが日常生活において出会う全ての辛さを、けがれなき聖母に対する私たちの愛を深めるために受けとめましょう」
★もう1つ、8日は、「太平洋戦争が始まった=真珠湾攻撃の日」だった。私は、当時、13歳。長崎大学病院の外科病棟で、入院中に、このニュースを聞いた。「いよ、いよ、戦争だ。ニッポンが勝つぞ」と皆が勝どきを揚げていた。今、考えると、「井の中の蛙(かわず)」で、日本人は外国のこと、アメリカのことを全く知らなかった。敵を知らずに、勝算は無かった。戦争は2度と起こすべきではない、老人は頭を下げて、強くそう思う。入院中に、私のベッドによく見舞いに来ていた娘さんがいた。永井隆博士の妹さんだった。遠い過去の思い出である。
★昨日の朝日新聞に、心引かれる1文を読んだ。ある訪問診察のお医者さんの小文である。「長生きの秘訣は何ですか?」と問われると、次のように答えている。「『きょういく』と『きょうよう』です」と。
★きょういく=(漢字の)教育ではない。「今日、行く」。今日、行く所がある。つまり自分の居場所がある。次の、きょうよう=教養ではない。「今日、用」件がある。つまり生活者として、自分が必要とされる役割がある、というのです。
★この発想が、強く心にひびいた。何かのコメントにも使えるな、と思った。きょう・いく=今日も行ける場所がある。きょう・よう=きょうも人のために何かを尽くす用件がある。結局、『きょういく』と『きょうよう』が、その人の生きる喜びになり、生き甲斐となる。つまり、これが長生きの秘訣となるのです。
★ホームに居ると、受ける側で、人に与える機会がない。動ける間は、自分が出かけて行って、人のため何かを尽す場所、そんな役割が欲しいと願う。
★自分に存在感が、ない。そりゃ、人との『つながり』がないからだ。「喜んで、お手伝いします」。行動する者が長生きする。人は老いても、生き甲斐は欲しい。

2018年12月8日土曜日

ああ、今年の最後の誕生会。それに加えて忘年会。喜びだ

12月、今年・最後の誕生会。合わせて忘年会。昼食はホームの入居者が全員、食堂に集まりました。山内園長神父さんが「今日は、マリアさまの日、皆さんのお母さんの日」と言って、食前の祈りに「アヴェ・マリア」を唱えました。挨拶に「マリアさま、コルベ神父」の話も出て、「カンパーイ」と大きな声で盛り上げた。12月の誕生を祝うのは、女性2人に、男性1人でした。「ハッピバスデイ」。元気に歌った。
★さあ、さあ、お待ちかねは、職員さんの出し物だよ。「おさるの、かご屋」でした。介護の男性、トマの部屋の係りでもある青木さん、栄養師さん、洗濯の女性職員さん、「おさるの、かご屋は、エーッサ、ホイ、サッサ」。チョウチンさげてハイってきた。食堂内を1巡して、踊りました。「おだわら・チョウチン、ひっさげて」。おだわら・チョウチンというのは、閉じても、そのまま収まるんだそうですね。「発案はダレね?」。栄養師さんでした。とにかく皆さん、喜びますよ。出し物が出ると、安心する。恒例ですからね。踊っている場面も写真に撮ったけど、載せないよ。
★お祝いの会食は、3つに分かれる。牛肉のすき焼き、豚肉のすき焼き、魚の鍋料理。私たちの食卓は、牛肉のすき焼きでした。和牛だよ。4人で食べる。やっぱり楽しいね。忘年会でも、あるからね。600gと書いてあった。これだけ食べれば充分でしょう。瀧神父さんは「野菜が、いい」という。すき焼きが終わる頃、ノド自慢の歌が出る。「95歳、いい声、しているね、女性だよ」。最後に、瀧神父さんが手を挙げた。マイクを持って、お正月の「替え歌」で、「早やーく、こい、こい、クリスマス」と歌って、喝采をあびた。見ていたら、園長神父さんが喜んで、両手を大きく開いて拍手をしていた。こういう人生に機転のきく才能がある人は、やっぱり、いいね。周りを楽しくする。
★準備する職員も大変です。ご苦労さまです。「忘年会」といっても、ホームの老人たちは、本当に懸命に生きている。シンドイけど、エライと思うよ。

2018年12月7日金曜日

役目を終えて、美しく広がるイチョウの葉。ああ、今年も終わる

ホームの直ぐ下にある神社。左側に1本の大きなイチョウの木があるが、すっかり葉が落ちて、ごらんの通り、イチョウの落ち葉で、キイロに埋め尽くしている。「高原さん、車、止めて」と、写したのが、この写真です。この落ち葉を見て、「ああ、今年も、もう終わりや、な」と思います。
★今年は、いい年だった。神にカンシャ。先ず、ポーランドの勲章を貰ったモンね。思いがけない勲章だったよ。「天国に、クン章、イラナイよ」。ゼノ修道士の声が聞こえる。それでも有り難い。ゼノ修道士の映画(ポーランド制作・30分・証言で綴る)も完成した。ゼノさんを、誉めて、褒め上げる証言ばかりだった。ゼノさんのような温かい優しい心の修道士は、もう再現しないだろう。勲章も、映画も、長崎新聞に大きく掲載された。
★今年も、語りべの役目を果たした。小学校と、女子高校生への語りだった。若者に出会うと、若さのパワーをもらえる。生きている喜びを感じる。「いのち、大切に」「友だちと、仲良く」。これが伝えたいホンネです。若くして、イノチを絶つこと、これがイチバン悲しい。惜しい命だよ。これから花開く人生だよ。声をダイにして伝えたい。生きておれば、花は咲く。「ひかげに咲く花もあるんだってね。いいじゃないか。花は、花だもん。それでも、よか」
★ホームの職員さんたちが「忘年会」を開いた、と聞いた。30数人が集って、盛り上がったそうだ。園長神父さんが居て、理事長神父さんが居て、園医のお医者さんも居て、事務長・介護職員の夫妻が、誕生会で踊った踊りを上手に再現して、思っただけでも、いい雰囲気が感じられる。
★12月4日は、養護老人ホーム聖フランシスコ園の創立記念日ということで、大きな紅白マンジュウを箱入りで頂いた。創立58年になるという。その以前に「養老院」として既に存在した。終戦と共に始まっている。その頃から、トマは老人たちに接して、知っている。長い歴史がある。
★職員たちも喜んで働ける。世話を受ける老人たちも安心して暮らせる。それが良いホームです。カトリック信仰の恵みに守られている。
★明日は、土曜日。ホームの誕生会があり、忘年会も兼ねて行なう。すき焼き、だそうです。さあ、明日は、どんな職員の出し物で沸くか、な。

2018年12月6日木曜日

聖母の騎士の霊性に、こだわる。自分に何があるのか。苦慮する

2日前、匿名さんからのコメントに、「聖母の騎士の霊性が、トマ修道士のうちに、ありますように」とあった。
★それについて昨日は、ナニ、カニ、と記述しました。しかし、何かが、私の心にヒッカッかっているのです。ぺラ、ぺラと、本から取って並べただけでは、説得がない。自分でもピンと来ない。うわべだけの流れです。キレイな言葉の羅列です。そうじゃなくて、聞いたり、読んだりでなくて、トマの、体験した、肌から出る「にじみ汁」というか、自分の受けた、痛んだ、響いた中から湧き起こる、霊性というか、それを考えつづけました。
★自分の魂に響く言葉。魂を奮わせるほどの一句。それが、ほしい。感動です。何に感動するか。常日ごろ、見ている風景、感じる出来事、そこから一瞬、パッと、ひらめくものがある。それが人生に、シュン発力を与える。
★日記を読んで、反応を返すのは、同じ食卓の瀧神父さんです。「神父さん、あなたが、あの『聖母の騎士の霊性』、書いたの?」と聞いた。「私は、コメント、書かないよ」
★考えました。今の自分の心境を、ひと言でいえば、やっぱり①「生かされて、今日も、生きる」。これは確かです。これが今の生活であり、言葉です。次に、もう、一つ、ある。②「苦しみは、のち、神の喜びと、なる」。これも、今、感じ、体験している過程です。苦しい事はイッパイある。本当です。でも、希望を持っている。それは信仰です。
★あと、もう1つ、なにか、ないか?そう思うとき、届いたのが、1通の手紙だった。
★2010年10月、京都で、1人の女性に出会った。そのことは全く忘れていたのに、8年ぶりに手紙が来たのです。書かれていた言葉が、「受ける恵み、与える愛」です。当時、聖コルベ館に居た頃の私の手紙には、最初に、必ず筆字で、この言葉を記していた。この言葉を身近に感じていた。最近は、殆ど使っていない言葉でした。そうだ、これが、あった。
★③「受ける恵み、与える愛」。沢山の恵みを受けて、今がある。与える聖コルベの愛が迫ってくる。無償の愛が追いかけてくる。私の人生、これらから逃げられない。匿名さん、私にとって「聖母の騎士の、トマ修道士の霊性」は、この3つです。この言葉が要約です。美辞麗句を並べても、チカラが、ない。この言葉が、トマの肌、心に感じる。
★昨日は、諫早総合病院へ診察へ行った。お医者さんから腹部のレントゲンを見せられる。腎臓に、10円程の黒い影がある。これが、そのまま、ジーッとして居ればいいが、そこから異物が出てくる。仕方がない。方法はステントの入れ換えです。1月の予定だったが、調子がよくない。「早めに入れ換えをお願いします」。18日に入院を決めました。「苦しみは神と共に」。安らかな気持ちで生きつづけたい。

2018年12月5日水曜日

生きるのには責任がある。祈り、耐え、喜び、愛しましょう

教会では、「待降節」に入った。主の「ご降臨=ご誕生=クリスマス」を「待つ」季節という意味です。今週から、ミサのとき、祭壇の前の4本の「ローソク」に、1本だけ灯がともされます。来週は、2本。次の週は、3本と増えて、4本目まで灯される。そして「降誕節」に入る。もう直ぐ、クリスマスですね。心の準備も必要です。
★今日は、諫早総合病院・泌尿器科の診察がある。高原修道士さんの運転・介添えで出かけます。医師に相談したい件もある。心配事も、ある。
★「幸せって、なんだ?」と考えました。「人に尽くす人が居るって、いうことなんだね。親身に。それが返ってきて、自分も幸せになる」。今の心境は?「九十にも、なったんだ。あわてずに、ゆっくりと、考えつつ、受け入れて、進もう」
★昨日の「コメント」に、匿名さんから、こんな一文があった。「『聖母の騎士の霊性』が、トマ修道士のうちに、ありますように」。有り難い、コメントです。神妙に受け入れた。忘れては、いけない。「聖母の騎士の霊性」「原点に帰る」「コルベ神父の無償の愛」「けがれなき聖母マリアへの愛と奉献」「アシジの聖フランシスコに倣う熱意」「修道士であること」。次々に、湧き出てきます。
★今朝、黙想のとき、「父なる聖フランシスコの霊性」の箇所を読みました。(ホアン・カトレット神父著、による)。「最も目立つ特徴は、『イエスへの情熱的な愛』です。聖フランシスコの『完全な喜び』は、イエスのために侮辱を忍びながら、十字架への愛に生きることです。聖フランシスコは全てのことを、謙遜に、純粋に、貧しさのうちに果たす聖人です。全てを『喜び』の精神で照らし、そこからフランシスコ会の楽観主義が誕生した。つまり神が創造した大自然を賛美し、愛し、鳥たち、魚たち、狼、花や、星などを『宇宙的な優しさ』によって仰ぎ見、人間だけでなく全ての被造物を『兄弟姉妹』として愛した。植物、動物、石まで、聖フランシスコから敬われた」
★生きることは、大きな責任がある、とトマ修道士は考えます。祈りましょう。耐えましょう。十字架を愛を持って抱きましょう。今日も、愛を果たす一日です。

2018年12月4日火曜日

濱口さんの自宅で、また食事。還暦の「写真集」が立派に出来るぞ

濱口さん夫妻の自宅に呼ばれた。ホームから300mぐらい。一緒に、3度目の食事である。1回は、障碍者の食堂で、食べた。「トマさん、何が、いいの?」と聞かれる。「この間はサカナだったから、牛肉の野菜炒め、それに卵焼きで、いいよ」「タマゴ焼き、好きなの?」「ホームでは時々しか、出ない」
★奥さんの則子さんが、来年、還暦を迎えるという。4人、子供が居て、「こんな本を贈りたいの」と、大型の絵本を見せられた。その時、長年の取材の経験が、もや、もやと、胸に盛り上がって、「写真集を作ってみよう」と思い立った。それで夫妻の生活写真を数枚、集めている。
★濱口さん夫妻は、鍼灸・整骨院を開院している。祖父も、この地で、同じ仕事をしていた。「じいちゃんは、言っていたよ。『お灸は、身を焼くにあらず。人の心を、ともす灯なり』ってね」「それで、アンタたちは、どうなの?」。夫妻は顔を合わせて、言った。「痛みを取るだけでなく、身も心も癒し、エガオになって、帰られる姿を見るのが、私たちの喜び」
★濱口さん夫妻と昼食をご馳走になりながら、私の、北朝鮮の頃の思い出から、骨盤カリエスを病んで、母の実家があった浦上へ帰ったこと、肋骨カリエス、脊柱カリエスなど次々に病んだこと、母親の苦労など語った。
★「トマさんは、好きな食べ物、あるの?」「あるよ。牛肉のテンプラだよ」「え、え?そんなの初めて聞いた」「うちは精肉店だからね。母が、よく牛肉のテンプラを食べさせた。おいしかった、な。母親の味だよ」
★則子さんの還暦の「写真集」も、大体、出来上がった。いい、思い出になりそうな立派な写真集が仕上がりそうです。
★長崎・原爆資料館の継承協会から、電話があった。「小崎さんの原爆体験を、アメリカ人が知ったそうです。ぜひ、お会いしたいと願っています。協力して頂けますか」「ああ、なんとか、がんばりましょう」
★明日は、諫早総合病院・泌尿器科へ予約の診察です。最近、調子が良くないので、どうなるか。気にしています。

2018年12月3日月曜日

日本に初めて宣教した聖ザビエルの祝日。聖ミカエルにも関係あり

「日本宣教の保護者・聖フランシスコ・ザビエル司祭の祝日」です。ホームには資料になるものが無く、聖ザビエルの写真はない。せめて平戸の教会の絵ハガキはないか、と探したが、これも無い。それで載せたのが自著「西九州キリシタンの旅」です。これで、カンベンしてください。
★ザビエルは「1549年」、鹿児島に上陸した。この年代は良く覚えている。400年が経った1949年、長崎で、聖ザビエル渡来400年祭が盛大に行なわれた。高校生でした。聖ザビエルの右腕が来日して、日本巡回の旅をつづけた。私もその聖腕を拝した。戦争が終わって4年です。キリスト教は戦時中、禁教でした。しかし今、自由になって、進駐軍のアメリカ兵にもキリスト信者が沢山いて、「キリスト」さま、さまで、教会に多くの人が押し寄せた。本当に、聖ザビエルの腕には、ビックリしました。
★ザビエルは、鹿児島で、島津の殿様から初めて布教を許されたのが、教会では「大天使聖ミカエル」の祝日に当たっていた。ザビエルが生まれたスペイン、当時はナバル国のザビエル城も大天使聖ミカエルに捧げられていた。そこでザビエルは、日本にキリスト教が広まるように、聖ミカエルに祈り、布教の保護者に定めた。聖ザビエルと平戸の宣教は「西九州キリシタンの旅」に詳しく書いてあるので、読んでみてください。
★平戸の教会には、よく巡礼しました。聖ザビエル宣教の記念聖堂です。鹿児島から平戸に宣教しました。大天使聖ミカエルに捧げられている。正面祭壇に、聖ミカエルのご像がある。巡礼したとき、ミサの後で、主任司祭に挨拶すると、神父さんは、こう言った。「平戸の人びとは、聖人ザビエルの後ろ姿に引かれて、キリシタンになった」。よく「おやじの背中」というが、「聖人の背中は、どんなだったろう」と、90歳の修道士は思う。

2018年12月2日日曜日

ある修道士の思い出。アンドレアさん。人生、まさか、の連続

1枚の写真がある。日にちは2011年11月11日になっている。真ん中の修道士、「アンドレアさん」と修道士名で親しく呼んでいた。1つ歳が上の先輩になる。アンドレアさんが、ホーム聖フランシスコ園に入りたいと自分から望んだ。そのお別れに、聖母の騎士で撮った写真(中央)だった。右がトマで、左はヨゼフ橋口修道士。
★数日前、聖アンドレ使徒の祝日があった。アンドレアさんを偲んだ。漁師のアンデレは、イエスから声をかけられ、弟子となった。アンドレアさんは若い頃、運搬のポンポン船に乗っていた。神の声を心に聞いて、陸に上がって、修道士の道に入った。戦争が終わって間もなくだった。以来、60年、老いても、熱心な祈りと、与えられた勤めを果たしていた。無駄口を言わず、会話の中で、アンドレアさんが、「ピシャット」1言、いうと、みな「ドキット」して黙するのだった。彼の生きる姿は尊い。ヒトは目で見るが、神は心で見る。カトリックの力が、ここに有りと感じた。楽しみは年に2回、春と秋に、数日、休暇をもらって、故郷の海を見に行く。丘に座って、黙々と海を見詰めているのだった。
★この写真の2ヵ月後、アンドレアさんは、ホームに入居した。元気だったトマは、アンドレアさんを見舞ったとき、ちょうど昼食時で、食堂で、大勢の老人男女が、一緒にご飯を食べていた。その雰囲気を一瞬、見たトマは即時に思った。「ここには、ゼッタイ、こないぞ」。修道士は男子ばかりの生活だったので、抵抗を感じた。
★ホームに入居して1年数ヶ月後、アンドレアさんは神に召された。そして、その1年数ヶ月後に、トマはホームへ入居した。ジンセイ、まさか、まさか、の連続だ。

2018年12月1日土曜日

阿野さんが、諫早市の地図を買ってきた。これで話題、広がる

お客さん、諫早の阿野さんが、「たらみの果物入りのゼリー」を2箱を下げて、見舞いに来た。82歳。7月にも、9月にも来ている。「ゼリー」はまだ残っていた。
★どうして彼を知っているか。前にも書いたと思うが、聖コルベ館に居たとき、彼は隣の幼稚園のバスの運転手だった。朝、夕、運転する阿野さんの顔をバスの窓ごしに見ていた。子供が乗っているから、安全運転に気をつける。「運転、あれ、いつ頃、だったかな?」「42歳から60歳まで勤めたよ」まだ、そのご縁をつづけて来てくれる。有り難い、お客さんです。
★「阿野」と言えば、どうしても上五島の舟隠の集落を思い出す。ここはカトリック信者の集落だが、阿野の姓が多い。阿野さん、やっぱり関係があるという。阿野さんの姉妹にシスターが2人。観想修道女会にいる。心配になるという。弟は長崎教区司祭だった。今は故人となる。阿野さん自身は、悠々自適、時々、こうして寄って、覗いてくださる。
★頼んでいた「諫早市」の地図を書店から買ってきてくれた。ホームに居ても、地図が必要だ。会話に、色々な地名が出てくる。地図があれば、もっと親しみが湧く。こうして時々、訪ねてくれるのは、頼もしい。「会うごとに、光がさすんですよ。生きて行くチカラになります」
★今日から、12月が始まった。「早やーいね」とホームの老人たちの誰もが口にする。先日、島原へ行ったとき、「やっちゃ・よかとこ」と看板に書いてあった。「やっちゃ、って何んね?」「めっちゃ、のこと」だそうだ。「とても・いいところ」
★「やっちゃ、やっちゃ、今年も、よ・か・こ・と、あったよ。あった。あと1が月で、新年だよ。早やーかね」

2018年11月30日金曜日

祈る家族の像が心に残る。み旨を受け止め、祈りつつ耐える

昨日の日記に「みどり」さんからコメントが寄せられた。「克明な描写でよくわかった。。タオルの間違い、おかしくて笑った。畑で、金の十字架の発見は興味深い。『原城の宿』は外観が城の石垣を模していますね。前にいる尾の長い動物は何でしょうか。ライオンですか?」
★入浴・食事の「原城の宿」の外観を、ぜひ撮りたかった。巨大な壁の形式なので、近くでは撮れない。バスに乗って、サヨナラする時に、揺れるバスの窓から、瞬間的に撮った。それが昨日の写真でした。「尾の長い動物、ライオンですか?」の答え。みどりさん、よく分かりましたね。写真を拡大して、興味深く見たんですね。まさしくライオン「獅子喚」でした。
★ライオンの前で、写真を撮りました。彫刻家、北村西望先生の作です。長崎市の平和公園に、平和祈念像があるでしょう。右手を天空に、左手を横に伸ばし、足は「あぐら」をかいた巨大な像、年に1度は必ずテレビに出ます。製作者が北村西望先生で、先生の出身地が、この有馬なのです。西望記念館もあります。
★昨日のドライブ旅行で、1つ、印象に残った像があります。それはロザリオを祈る親子のキリシタン家族の姿です。左側には役人の手と刀が見える。「キリシタンを捨てよ、さすればイノチは助けてやろう」「いいえ、お役人さま、わたし共は、ゼズスさま、サンタ・マリアさまと、いっしょで、ごぜーます」。彼らの声が聞こえてきそうな場面です。
★昨日は、この親子の姿をジーッと見詰めて、度々脳裏に描きました。原城跡では3万7千人が殺された。悲しい出来事です。「キリストの教えを信じれば、なぜ、こんなにも苦しみ、痛みを受けるのだろう。キリストの弟子たちも次々に殉教している。イノチを捧げた。信じることは、イノチを賭ける試練だった。信仰は厳しい」と、生き方の覚悟が問われます。
★わたしの常の言葉に「生かされて、今日も、祈る」がある。次いで「苦しみは、のち、神の喜びに変わる」がある。前者は分かるが、後者は、中々人間の知恵では、理解し難い。だが、そこまでの体験に至らなければ、信仰は本物では、ないだろう。人それぞれ、与えられる苦しみ、痛みは異なる。み旨として受け止め、祈りつつ耐えてこそ、希望の光が見えるかも知れない。助けて、ください。ゼズスさま、マリアさま。

2018年11月29日木曜日

島原半島「日帰り旅行」。原城の宿で湯に入る。カラオケ謡い満足

海辺に面した「原城の宿」(写真)。ホームから、島原半島を一周する「日帰り旅行」に出かけた。20人余りが参加。ホーム⇒干拓道路⇒愛野⇒小浜温泉⇒加津佐⇒口の津⇒原城跡⇒「原城の宿」。宿では先ず、湯に入った。
★湯は広い。アワ立つ丸い湯がある。これは、ぬるめの湯。しばらく浸かった。体を慣らして、広い熱めの湯に変わった。左側に手すりが付いている。滑らないように慎重に歩く。黄色く丸い洗面器にタオルを入れて、湯に浸かった。気持ちが良い。ジーッと湯の熱さを身で感じた。
★体格がガッチリした爺さんが、洗面器を置いて、同じ場所から湯に入ってきた。爺さん、腹部まで浸かっている。しばらく時が経った。私が、上がる。もう出よう。シャンプーは使わない。シャワーで流して、タオルで拭く。洗面器でタオルをもんでいた。
★すると先き程の爺さんが、ツカ、ツカと傍に寄ってきた。「タオル、間違っていませんか」「え?タオルには、オレのは名前を書いているはずだ」。名前がない。完全に間違ってしまった。「ああ、ごめんなさい、間違いました」。なんともバツが悪かった。謝りに、あやまった。「すみません。ごめんなさい」。思わず手を出して爺さんの手をつかみ握手した。後で、考えた。あの爺さん、ふしぎに思っただろう。(なんで、握手なんか、したんだろう?)。老人の失敗、カンベンしてください。この失敗は誰にも言わなかった。
★食事をしながら、ゆっくりとした時間を過ごし、カラオケでも楽しんだ。トマは、原城にちなんで「古城」を歌い、山内園長神父さんが「島育ち」を歌うと、瀧神父さんが「島ブルース」を歌った。料理は「うちわ貝」に乗った黄色いグラタンが出た。ホームを出る。しばし違った、世間の雰囲気に浸るのも、元の気分の転換になる。部屋の外は、眺めがよい。天草灘が広がり、雲仙岳が霞んでいた。
★潜伏キリシタン関連が世界遺産になったお陰で、ここ「有馬」にも脚光が浴びた。旗や看板が立ち並び、旅人を誘う。有馬キリシタン資料館を見学した。有馬の殿様、有馬晴信はキリシタンの洗礼を受けて、口の津、加津佐を中心に文化が栄えた。弟の純忠は大村の殿となり、大村領もキリシタンで繁栄した。
★私の記憶では、有馬あたりの農民が畑を耕していると、縦4cm程の太めの金の十字架を発見した。殿様・晴信がローマから戴いた貴重な品らしい。いまは島原城の資料館に展示されているが、あの金の十字架が有馬の資料館にあれば、もっと格があがるのに、なあと思った。
★有馬資料館⇒水なし本陣⇒島原ロード⇒かまぼこ屋⇒ホーム。朝、9時に出て、夕方4時半に帰った。小型バスに揺れて、見学で歩いて、立っている時も多く、やはり足に堪えた。でも、ゲンキなうちは、歩けるうちは、出かけよう、見物しよう、体験しよう、そう思う気持ちは変わらない。

2018年11月28日水曜日

傾聴ボランティア女性が来る。何でも語って、アタマは、スカッと

ご苦労さま。待っていました。この女性が来ると、安心というか、ホットします。
★毎月1回、定期的に来て、こちらの語りを一方的に聴いてくれる人が、他に誰が居るでしょうか。2、3度は来る人も居るでしょう。でも17回ですよ。しかもボランティアで、自分のお金を使って、列車・バスを乗り継いで、後は徒歩でホームまで来る。2時間はかかる。大変ですよ。帰りも同じです。お礼金も、お茶1杯も受け取らない。1時間、ただ、相手の話を聴くだけです。女性は、話の最後の部分の言葉を相手に繰り返してあげる。意見も言わない。説教もしない。だから話す方は気兼ねがないのです。聴き手と、語る者の間に、壁も川も、ない。語る内に、ご縁が深まってくる。聴く者にとっては、以前と重複の言葉かも知れない。それでも忍耐して聴いて下さる。有り難い。
★語り始めは①生活のリズムだね。(三食完食、大のトイレ、安眠、歩ける)の様子。②老いと共に、これから先、身体的に、どうなるか、心配になり、不安もある。③生き甲斐は、あるのか。日記を書くこと、かな。これは自分のためでも、ある。④物の整理をする。不要な物は破棄していく。⑤職員や隣人とのトラブルは、ないか。⑥老いて、心境の変化は、ないか。話すことは、いろいろ有ります。
★こうして一方的に語る内に、当方のアタマは整理される。そして傾聴女性も、何らかの心的恵みを受けているらしい。お互いの恵みが成り立っていると感じた。当方は、傾聴女性については何も聞かない。何も知らない。
★この世の中に、こんな女性も居るもんだと、ただ、ただ感心して、甘えているだけです。「今度、いつ来れるの?」。次、12月の予定を決めた。
★今日は、ホームの「日帰り旅行」です。20人近くが、島原半島「天草四郎の原城」近くの宿(入浴と食事)に向かいます。帰りは午後4時頃になるでしょう。

2018年11月27日火曜日

「小崎さん、日記を読んでいます」と、突然、男性と出会いの喜び

毎日、「90歳日記」を書いている。何処で、誰が、読んでくれているか、全く分からない。ただ自分のために、ボケ防止のために、終末の心境で書きつづけている。そんな中、突然「お会いしたい」と訪ねて来る人が居れば、それは嬉しさと驚きを隠せない。
★事務室から自室に電話があった。「いま男性1人が、小崎さんのブログを読んで、お会いしたいと来られている」「自室にお連れしてください」「いや、それが時間がないそうです。お顔を見ただけで帰ります、と言っています」。メガネをかけ、デジカメを持って、玄関へ降りて行った。
★写真の男性が待っていた。東京の人、名前も告げた。「長崎空港へ着いて、レンターカーを借りて、直ぐに来ました」「日記を見ているんですか」「ハイ、2年前から毎日、読んでいます」「どうして日記を知ったんですか」「検索している内に、日記に行き当たりました」「そりゃ、どうも。何か、心に響くものがありますか」「ええ、それは、もう、あります」
★男性は、「おみやげは何も持たない。途中の花屋で、お花を買いました」。シクラーメンの鉢物だった。「ありがとう。お花まで頂いて」「これから長崎市へ出て、早くレンターカーを返すので、急ぎます。一目、お会いするのが念願でした。嬉しいです」。トマが握手を求めた。
★全く見知らない男性が、一目会いたいと、わざわざホームまで訪ねて来たのは初めてではないか。その熱意に心が動いた。男性のことは何も聞かない。訪ねてくれるのが有り難い。
★日記の、何が、人を惹きつけるのか。自分では分からない。ただ気持ちとしては、単なる日常の出来事や行事を示すのでなく、人の生き方や、苦労と喜び、悩みや困難、それらを乗り越えるひと言が欲しい。90歳。終末に向かう気持ちを正直に記したいが、限度もある。どこまで書けるか迷いもあるが、記録で吐露したいとは思う。
★「心に、ひびく言葉、手アカの、ついていない言葉、魂をふるわせるほどの、一句がほしい」。いま、一番うれしいこと、「小崎さんですか。会えて、よかった。うれしいです。日記、読みました。本、読みました」と、言ってくれる人に、出会うことです。

2018年11月26日月曜日

「尼さん」と親しく呼んでいる神戸の尼さん。思い出沢山ある

聖母の騎士でお祝い事があるとき、出席するのは、思いがけない出会いに期待している。それが秘かな楽しみです。
★左のお方、仏教の尼さん。私たちの間では、「尼さん」「尼さん」と呼んで親しんできた。今度も、本当に久しぶりにお会いしました。神戸にお住いで、6、7人の女性の親友をお連れしての参加でした。尼さん、もちろん、トマをよく覚えていてくださった。
★神戸の尼さんが、どうして聖母の騎士にご縁ができたのか。尼さんが話してくださった。あるお坊さんから、ルルドのお水を頂いた。病気を病んでいて、お水を頂くと、病気が快癒した。ルルドはどこにあるお水だろう。調べてみて、フランス。そこへ行けない。日本でも、ルルドは無いものか。探したら、長崎に、コルベ神父が造られたルルドがあった。そこでお礼に、お花を抱えて、ルルドのマリアさまにお礼の祈りに行った。それが1998年のことでした。ちょうど20年前のことです。
★その頃、聖母の騎士の受付に、修道士のフランシスコ中村さんが居た。フランシスコさんと親しくなる。この尼さんの特徴は、優しさ、誰とでも、すぐ親しくなる。相手を温かく心の内に抱擁する。慰める。オーラがあるんです。フランシスコ中村修道士を通じて、院長のコンラード濱田盛雄神父さんとも親しくなる。1999年には、濱田盛雄神父さんが主催の「ローマ・ヴァチカン・ルルド」の巡礼旅行に同行した。それを期に、「尼さん」「尼さん」と修道者仲間から親しまれた。
★トマが忘れる事が出来ないのは、アントニオ久松修道士が病気のとき、尼さんが仲間を連れて神戸から来られて、手厚く看護・介護してくださった思い出です。よく面倒を見てくださったのが、頭にしっかりと残っています。
★修道服と、尼さんのお姿で、一緒に祈ります。コルベ神父の愛の心が、私たち修道者と神戸の尼さんをつなぎます。その後も病気を病みながら、20年はお元気で、人びとの幸せのため活動しておられます。こういうお方を友に持つのは、大きな喜びです。

2018年11月25日日曜日

修道会の司祭叙階50年金祝、25年銀祝のお祝い、ミサと祝賀会

コンベンツアル聖フランシスコ修道会・日本管区の「兄弟の集い」の最終として、本修道会員の司祭叙階50周年金祝と、25周年銀祝のお祝いが、長崎・聖母の騎士教会に於いて行なわれた。
★左から金祝の①ベナンチオ水浦征男神父(77歳)=長崎・聖母の騎士。②ニコラス・スワイアテック神父(77歳)=愛知県瀬戸教会。銀祝の③チェチリアノ赤尾満治神父(52歳)=兵庫県西宮市仁川学院。
★祝賀ミサの司式は、ニコラス神父。彼の力強い先唱の声の祈りと、歌で始まった。同修道会の多数の司祭たちによる共同ミサ。沖縄のベラルド押川壽夫司教も参加された。説教は水浦神父。「15.262。この数字は何だか分かりますか。50年間、これだけ毎日ミサを捧げてきました。司祭最大の務めは、ミサを(完璧に)捧げることです。お祈りください」
★ミサの後は、教会ホールで祝賀会が行なわれる。ここでの水浦神父の挨拶。「日本に沢山の司祭が居られるが、私に自慢出来る事がある。それは体重が最も少ないという事です。生かされています」。水浦神父は療養中です。
★祝賀会のとき、押川司教は、水浦神父について、こう絶賛していた。「彼は上智大学の新聞学科を出たジャーナリズムの専門家です。教皇が来られたとき、日本の教会にとって貴重なメディアで苦労した。コルベ神父はメディアで最先端で生きたい司祭だった」
★ニコラス神父は、アメリカ人で、「日本に、33年間」宣教している、と述べた。
★赤尾神父は、壇上に家族と共に上がり、両親をはじめ一同を紹介した。生んでくれて、ありがとう。生まれてきて、ありがとう。そういうオーラーが輝いていた。赤尾家の皆さんは、「幸せな方、マリア」を合唱した。それは素晴らしい音楽だった。家族の支えで、司祭は育つ、その証を現実に目に前で見せてくれた。会場内は感動の渦に舞い上がり、喜びに満ちた。
★「順境のときも、逆境のときも、兄弟愛のうちに、一日一日を大切にしつつ、神から与えられた愛の奉仕を、これからも果たしつづけることができますように」(ミサ中の共同祈願より)
★お祝いのミサと祝賀会で、トマは珍しい女性に出会ったが、それは次に報告しましょう。