2017年9月11日月曜日

朝、教会で、静かな時に、何やら思いが湧いてくる

ホームに隣接する湯江教会の祭壇の生け花です。ひまわりは、チカラある花です。「リン」とした姿で咲いている。このパワーに、惚れるなァ、と思いデジカメを向けた。
★今朝も、5時15分、予定通りに教会に入る。もう2人の車椅子の男性が席についている。「早いなァ」。感心しますよ。彼らに挨拶して、祭壇の近くの席に着く。今日のミサのページを一見し、教会の祈り本から「読書」の詩篇を黙読する。終わると共同で唱える「朝の祈り」が始まるまで、しばらくの時がある。その時が私にとって、こころが静まり、思いが湧いてくるというか、何か思いが浮かんで気そうな気持ちになるのです。神に向かう時かも知れない。
★今朝、思ったのは、「今日の言葉は、何だろう?」です。今日を生きるために、何かの言葉を見つければ幸いだ。例えば「朝、起きられること」を考えた。普通に、起きるのではなく、起き「られる」恵みです。そこに普通でない、喜びと恵みを感じる。起き「られる」自分は幸せです。そう思います。元気な時は、起きて当然だった。今は違う。
★他に、「今日の言葉は、有るだろうか」。考えてみるが、思いつかない。「ありがとう」もあり、「おはよう」もある。一日の内で、言ったり、思ったり、「今日のことば」を、意識して、覚えて、注目して生きるのは意義のあることです。大切な感じがした。でも残念ながら、思いついても、それを膨(ふく)らませる能力がない。だから知り切れトンボになってしまいます。こうして今日も始まった。
★午後からのロザリオを終わって、今、パソコンに向かっているが、今日は何事も起こらず、入浴しただけです。一日、一日、生きて、同じことを繰り返す毎日です。共同で「朝の祈り」の時、「一日の仕事を神にささげます」「今日の出来事のうちに神の業をみる」「隣人を裁かないように」「思い、言葉、行いを通して、神の慈しみを現わす」など祈りを唱えました。このホームがキリスト教の倫理観で運営されるのを望みます。家族的な、愛のある、争いのない、老いても幸せなホームであるのを祈ります。
★「ブログ、読んでいますよ」と声をかける職員さんも、1人、2人と増えてきた。最近は瀧神父さまが入所して、スマホが読めるようになられた。食卓は隣同士だから、会話がはずむ。「ブログ、読んでいるよ。いつの時間に書いているの?」と、ブログは遠い人ばかりでなく、隣の人も読んでくれるようになった。嬉しいです。ブログを書くのは、苦労もあるが、自分のために書き続けようと思います。ボケの防止にもなるでしょう。これから、トマは、どうなるのかなァ、それが問題だよ。

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