2017年12月15日金曜日

「映画」の忘れ事。2人の修道士の出演。安堵する

昨年の8月、長崎・聖コルベ間の居室で、ポーランド映画班の取材を受けている写真です。
昨日、夜になって、日記をふと思うと、大事な内容が抜けているのに気がついた。私たち2人の修道士が出演していた。松下修道士と、小崎修道士です。「これが一番、興味があったんじゃないか、忘れるナンて」と苦笑した。
★映画の中ほど、場面が長崎市を走るチンチン電車が映ると、何となく気持ちがホッとした。眼鏡橋も映る。先ず松下修道士は、コルベ神父、ゼノ修道士の一行が長崎に上陸した時から、現在地へ移る過程を説明した。大浦天主堂へ行き、司教に会い、神父が哲学教授を勤める条件で宣教の許可を得る。大浦の雨森病院跡を仮の修道院として落ちついた。ゼノ修道士は、市内に修道院の土地を探した。浦上に見つけたが、コルベ神父は現在の場所(本河内・ほんごうち)に決めた。後日、長崎に原爆が落ちたとき、修道院は安全で、守られた。これらの歴史を語っていた。
★ポーランドの映画取材班は、原爆の日、午前中は浦上の平和公園で行なわれた平和の式典を撮影していた。午後に聖母の騎士に来た。写真がその時の取材の様子です。
★小崎修道士は、お決まりの言葉で、原爆で、家と母を失い、直ぐに聖母の騎士に入る。原爆の丘で、自分は原爆当日、どのように歩み、生きたか。助けない、逃げた、仇なる人間は許さない、「この『許す』が最も難しい」。人間の弱さ、逃げる、助けない。それと仇なる人間に対しては憎んで当然、恨んで当然、仕返ししようと思って当然、なのに、コルベ神父のような愛の人もいる。そこに人間の希望もある。
★もう1つ、このコルベ神父の居室の隣は、セルギウス修道士だった。彼は、聖人は居室で何をしているか、カギ穴から覗いた。コルベ神父は床にひざまずいて祈っておられた。セルギウス修道士は、そう語った。
★映画では、画面右側に、日本語訳、下に英語訳が付いていたが、私たちの言葉は日本語そのままで語っているので、満足した。語りを短くまとめていたが説明はついた。匿名さんから「堂々として映っております。監督を導く親父さんのよう」とコメントを頂きましたが「ありがとう」

2017年12月14日木曜日

映画「二つの冠」を見ての感想。昭和の匂いを思う

茂みの道を行く少年と母親の会話から始まった。少年は「冠を見た。両方とも欲しい」と母親に秘密を明かす。率直に「二つの冠」。題目から入った。映画では、コルベの少年時代のことが、よく理解できなかった。宇宙へ飛ばすロケットを考えていた少年。また一方では、国家のため軍人となって戦う気持ちも抱いていた。なぜ神学生の道に進んだのか、映像では読めなかった。
★ローマに留学して、「けがれなき聖母の騎士会」を立ち上げる様子は、手際よく描かれていた。騎士会創立100周年を意識してか。ラチスボーヌンの改心の教会も出ていた。懐かしい。
★次の場面が深く印象に残った。中央にコルベ神父が居て、手前、両脇に2人の修道士が居る。これから誓願を立てる修道士達だった。コルベ神父は、彼らに諭す。「行くべきは清貧の生き方。フランシスカンだから貧しく生きる。自分個人の所有物は持たない。次いで、貞潔の生活。これが最も困難になるだろう。神は人間に、愛情や性欲を与えておられる。その普通の流れに逆らって、生涯、貞潔の生き方を選ぶのは尋常ではない。人間には出来ないが、神と聖母マリアが助けてくださる」。この諭しは、私が70年の過去を振り返ってみても、当然よく思い当たる。人間は弱いものです。迷います、傷つきます、汚れます、でも、また立ち上がる。長い人生です。いろんな誘惑、惨めさがある。
★映画には「清貧」と「貞潔」だけが諭されていたが、実は、コルベ神父の特徴は、もう1つの誓願、「従順」にある。これが大切。コルベ神父の本命だ。コルベ神父が、騎士会を創立する、騎士誌を発行する、ニエポカラヌフ修道院を設立する、東洋へ宣教に出かける、これら総ては、彼が個人的に自由に行動したのではなく、先ず必ず長上(総長、管区長、院長など)に意見を提出して、「許可」を得てからの進軍であった。自分の意思ではなく、けがれなき聖母の意思に従う。マリアの御意思は目上によって示される。そのためコルベ神父は絶えず長上に沢山の手紙を書いて許可を願った。許可があれば、安心して、彼なりの行動が出来る。コルベ神父は「従順の聖人」とも言われる。
★映画で印象に残るのは、もう1つ、「マリア」の挨拶がある。修道院の暗い廊下と個室。病室であろうか。明かりを灯した見回りの修道士が「マリア」と低い声で挨拶する。暗闇の病人も「マリア」と応じる。「マリア」の挨拶は、ニエポカラヌフ修道院だけの「マリア信心」の習慣だった。これは長崎・聖母の騎士修道院でも受け継がれ、実行されていた。実際、私たちも「マリア」の挨拶を、ごく自然に、楽しく実行していた。今はもう無くなったが、なんとも、この「マリア」の挨拶は懐かしい。コルベ神父自身が「マリア」を呼吸して生きておられた。聖人と共に生きる者は本当に幸せである。
★「二つの冠」は、コルベ神父を全く知らない人には、理解に少々困難を感じるだろうと思う。ある程度、コルベ神父を知っている者には魅力的な映画である。沢山の、古い写真が出てきて、私には「昭和の匂い」を感じるような気持ちであった。
★ショパンの国だけあって、音楽は素人の私にも、心を揺らすものを感じた。
★映画が終わって、休憩をとって、監督と俳優のトークショウがあって、散会となった。去り行く人びとの群れに、「ジンクーエン」「ジンクーエン」の言葉が聞こえた。ホームに帰って床に就いたのは、11時15分。初めての時間だった。13分の話に安心したのか、眠れた。

2017年12月13日水曜日

話は13分。最後は「ジンクーエン」で締めくくる

ステージに上がるのに、木製の階段を、院長神父さんが手伝ってくれた。椅子に座って、快調にしゃべり出した。
★修道士の小崎登明、老人ホームに入って4年目、89歳です。昨年の8月、原爆の日、母の命日に、ポーランドから映画の取材班が聖母の騎士に来た。「なぜ今どき聖コルベなのか?」「けがれなき聖母の騎士会創立100周年に当たるので、映画を作って、広く上映したい」「題は何ですか?」「二つの冠です」。コルベ少年が、町の教会の聖母子祭壇で、聖母マリアから見せられた白と赤の2つの冠のことです。
★原爆に会って、家を失い、母を失い、孤児になった私を、救ってくれたのがポーランドの修道者たちだった。戦後すぐにコルベ師の列福調査が始まり、最初は「愛の殉教者」を目指していたが、途中で「証聖者」に変更になる。証聖者になるには2つの奇跡が必要です。奇跡は認められ、列福式が聖ペトロ大聖堂で行なわれた。その時、パウロ6世教皇さまを初め、全聖職者の祭服は白色だった。11年後、聖人に挙げられるときは「殉教者」。ヨハネ・パウロ2世教皇さまで、大勢の信徒のため大聖堂の広場で行なわれたが、全聖職者は赤い祭服だった。2つの式に与った私は感動した。「かつて少年が見た白と赤の2つの冠は、話噺(はなし・ばなし)でなく、現実に、いま、私たちの目で見える形で実現した。感謝の祈りを捧げました。
★この世で一番大切なのは「愛とイノチ」です。コルベ神父の「愛とイノチ」を追い求めて、私はポーランドを10回巡礼した。コルベ師が聖人に挙げられて、すぐに「お母さん」の墓参りをした。クラクフの観想修道女会で、30年を過ごされた。厳しい生活のシスター達で、屋外には出られない。百数十人のシスターが居た。「お母さん」は禁域外に小さな部屋をもらって、シスター達のために受付係、外交係、買い物係として、働かれた。数人のシスターが出てきて、お母さんの思い出、「マリアへの信心が深い、優しいお母さん」を語ってくれた。コルベ師が亡くなった時、知らせに来たのは、ニエポカラヌフのガブリエル修道士だった。報告を受けて、「お母さん」は既に覚悟をしておられた。しかし「二つの冠」は、まだ秘密にしていた。修道士が帰った後、お母さんはニエポカラヌフの院長神父宛に手紙を書いた。そのとき初めて「二つの冠」の秘密を明かし、公となったのです、そこの修道女院のシスターから聞いた。お母さんは、ある日、出かけた際、途中で不具合になった。近くに2人の看護師が居り、助けて、近くの石段に座らせたが、突然、手をあげて、目を空に向けて「息子よ」と小さく言って前のめりになり、亡くなった。お母さんは、シスター達の墓地に葬られるのを望んでいた。墓地をお参りしたとき、自分の母の事をも思い、祈った。シスターが言った。「日本人で、お母さんの墓参りをしたのは、あなたが最初です」
★コルベ師からイノチを助けられたガヨビニチェックさんを3度訪ねた。イノチをもらったとき、彼は、ありがとう「ジンクーエン」と言わなかったのが一番の残念です、と言い、青い目から涙を流した。3度会ったときも、そうでした。
★この映画を作ったスタッフの皆さんに、ポーランドの修道士達に、ポーランドの皆さんに、ありがとう、と申したいです、「ジンクーエン」。私は深くアタマを下げた。大きな音の拍手をいただいた。13分の話だった。
★話の後で、駐日ポーランド大使から「感謝状」を頂いた。「ポーランド文化の普及、キリスト教的な価値の伝達、青少年教育のご活動、ポーランド人宣教師の事業を長年にわたり継承された」と書かれている。名誉ある感謝状だった。
★私は誉められる事は何もなく、反対にポーランド人の修道者から助けられたのが実感です。握手をして、また三方に「ジンクーエン」とアタマをさげた。席に戻ると、あの例の2人の司祭が、喜んで、ニコニコしながら、手を振ってくれた。
★会場が暗くなり、いよいよ映画が始まった。私のカラダは何故かいつまでも小刻みに震えていた。

2017年12月12日火曜日

「二つの冠」映画の前に、隠れたカットウがあった

長崎のカトリック・センターの映画上映ホールのトマ修道士と、松下修道士です。(写真がブレていて、すみません)。2人とも映画に出ているそうです。これから、コルベ神父の生涯の映画「二つの冠」が、いよいよ上映されますが、その前に、今日は、これまでの知られざる裏側の一連の流れを、知って欲しいのです。待ちに待った映画ですが、実は、このときトマのアタマの中は混乱状態でした。写真がブレているように、アタマの中もブレていた。映画を見る前に心配事があったのです。
★振り返れば、今年の10月末のある日、ホームの自室で昼寝をしていたトマは、2人のポーランド人司祭が突然、入って来て起こされた。12月11日に長崎で映画の上映が決まった。「実は、映画・上映の前に、トマさんに、10分ほどの自前のコルベ神父の話をして下さいませんか」「え、私が、ですか? いや、ですよ。私には、とても出来ません。長崎には適当な司祭も居るし、その人に頼んでください」「いや、いや、トマさんの話の方がいいのです。わかっています」。トマは必死で断り続けたが、2人の司祭はガンとして聞かない。あきらめない。しきりに、「トマさん、頼みます、お願いします」を連呼する。「何を話せば、いいのですか」。押し問答になった。「どうしても出来ません」。2人の司祭は、両の手を合わせて帰って行った。確信が持てないままに、別れてしまったのです。
★11月、長崎・聖母の騎士で、女子高校生たちに話をした。そのとき偶然にも、聖コルベ館で、ちょうどポーランドから映画の関係者が来て、あの2人の司祭も来て、院長神父さんが応対していた。「これは神の計らい」と、私は女子高校生の群れから外れて、その場に入り、そのとき、はっきりと「私の話は、院長さんにお願いします」と、その場で断った。院長さんは話を承知してくれたので安心した。その後、自室に来た司祭の1人に、はっきりとお断りの手紙を出した。返事はなかったが、これで終わった事と思っていた。
★12月に入り、院長さんから電話があって、「何か、トマさんに『章』を贈りたいそうです。本名がいいか、小崎がいいか、尋ねています」。何のことか分からないが、「小崎がいいです」と返事はした。(カトリック・センターに着いて気がついたのですが、何とか、トマをステージに上げ様とした策でした)
★そして、いよいよ本番、上映の日となった。ホームを出発するとき、ステージに上がれば大変と、修道服を着て、スソをたぐり上げて、その上から黒のジャンパーを着て隠しておいた、「トマさん、おなかが、ふくらんでいるよ」「そうか、なァ」
★カトリック・センターに着く。聖母の騎士からも院長さん初め、10数人が修道服姿で到着した。映画の監督さんと握手して、担当の女性から「感謝状」を受けること、その前に10分ほどの話をすることを告げられた。あの司祭2人も居た。「手紙、もらったよ」。でも効果がなかった。院長さんに迫ると、2人でステージに上がろう、と言う。幸いに30分ほどの時間の余裕があった。「2人で上がるなら、私が1人でします」。そして混乱したアタマを整理しているのが、今日の写真です。覚悟は決めました。心臓はパク、パク。足はガタ、ガタ。「よし、それでも、ガンバルぞ」。映画を見るまで、まだ遠い。

2017年12月11日月曜日

コルベ神父の映画「二つの冠」は今夜が上映です

昨年の8月9日、長崎・原爆の日、母の命日でもあった。午後から、ポーランドの映画取材班が、長崎の聖コルベ館へ来て、コルベ神父の映画の撮影が始まった。私も呼ばれて取材に応じた。映画の題目は「二つの冠」。コルベ少年が、町の教会の聖母子祭壇で、聖母マリアさまから見せられたという「赤い冠、白い冠」のことで、コルベ神父の全生涯を表している。
★あれから1年4ヶ月、映画は完成し、既に東京では上映され、今夜、長崎のカトリック・センターでもその映画が上映される。待っていました。私は、どのように写っているでしょうか。心、ワクワク、期待しています。
★ホームからも、7、8人が観映に出かけます。もちろん私も行きます。ホームの出発は4時です。映画は6時から始まります。帰るのは10時頃になるでしょう。映画を見ての感想は、明日のブログ・日記に書きましょう。

2017年12月10日日曜日

お昼の食事は、これでした。完食すれば健康によし

三度の食事の時間が近くなると、自然に、食堂の入口の長椅子に、毎回、同じ顔ぶれが集る。扉が開くのを、ジーッと待っている。食堂内では既に介護が必要な人たちが食べている。歩ける人も、どうしても食事に時間がかかる人は、早めに入れてもらえる。健康な人たち、車を押している人も辛抱強く待っている。
★誰かが、「ゼンザイが食べたかね」と言った。そういえばホームに入っている人たちは、自分の好みの食事は食べられない。私は、ぼんやり、「そう言えば、夏に、トウモロコシの蒸かしたのを食べたかったな」。テレビで食べている姿を見たのだ。食事に対して、特別な好みや思いは無いが、やはりホームの生活は寂しいと思う。
★お昼のメニューは、さつま芋ご飯、柔らかチキンソテー、ゴボウのおかか煮、つけもの、こんぶのすまし汁、ブドウ、だった。食事のときは、皆さん、会話も無く、黙々と食べている。食べる時間が早い。もっと、ゆっくり、くつろいで食べたいと思うが、そうは行かない。あと片付けがあり、洗いがあり、掃除もある。
★やっぱり、自宅で、一人ででも、自由に暮らしたい思いは起こるだろう。ホームに居れば、食事はカロリーで計算され、健康が保てる。独り暮らしは、そうはいかない。ホームの人の長生きは確かだ。自由を選ぶか、管理を望むか。結局、人間、最後は歩けなくなります。前にも書いた。「人は、オシメで始まり、オシメで終わる」
★何んか、暗い話になった。屋外では、雨の降る音がしきりにしている。「アッ、ピカッと、いなずまが光ったよ」

2017年12月9日土曜日

祈りとは、今を肯定し、未来に希望を持つことです

女性が聞いた。「祈り、とは何ですか?」。答えに難しい質問だね。「自分で、考えなさい」
★食堂で、隣の席の滝神父さまが、私に尋ねた。「お母さんの命日は何にち、だね?」「9(ここのか)です」「9日のミサの意向は、お母さんのためお祈りするからね」「ありがとう」。そして今朝の食事の時、「ミサの祈り、ありがとう」「お父さんは?」「19日です」。父の事は殆ど考えない。記憶では、父は、19日に亡くなった、と思っていたら、今、ノートを調べたら、昭和10年3月9日に死亡していた。父、46歳。母、45歳。どちらも「9」の日だった。
★浦上には「9」(原爆)の日に、1軒の家に、近所の信者が集まって、先祖や故人のためロザリオを唱え、その後で、1家族から、3、4人の霊名の聖人、「聖マリア」「聖ドミニコ」「聖ペトロ」「聖エリザベット」など長々と呼び上げて、皆で「我らの為に祈り給え」と祈る習慣があった。その家族らも老齢化したであろう、今でも続いているだろうか。
★コルベ神父は、「マリア」「マリア」と呼吸し、それが祈りだった。「望みを叶えて下さい」だけが祈りではなく、苦難が来たとき、乗り越えるチカラを求めるのも祈りだろう。祈りとは、今を肯定し、未来に希望を持つことだと思う。生かされている、ありがとう、かんしゃ、これが祈りの基本だと思う。
★ホームでは、午前中、「コーラス」「軽体操」といって、皆さんが食堂に集まって、両手を、アタマ、胸、足へと動かしながら、童謡を歌う。結構、これがカラダのためになるのです。その後、ネットと張って、両側に分かれて、フーセンを飛ばし合う笑いの多い競技があった。幼児になった「つもり」で参加している。楽しかったよ。

2017年12月8日金曜日

無原罪の聖マリアの祭日。戦争開戦。何処に居た?

両手を広げたマリアさま。足元に地球。御足は「ヘビ」を踏んでおられる。無原罪の聖マリアさまの御姿です。今日が、そのお祝い日(祭日)でした。写真の無原罪の聖マリアのご像は、トマの自室に飾っています。アメリカ・テキサス在住のKoKo洽子さんからの贈り物です。マリアさまに守られています。
★「無原罪の聖マリア」というと、コルベ神父に直結します。コルベ神父は、マリアさまを表現するとき、「けがれなき聖母」「インマクラタ(ラテン語)」「ニエポカラナ(ポーランド語)」を使いました。全く汚れの無いマリア。そして私たちも「清さを保つ」人間になる。けがれなき聖母に全く奉献して、マリアさまの道具になって、マリアさまのために働く騎士になる。そのため沢山、苦しみました。最後は「マリアを通してイエスへの愛」をつらぬき、友のために命を捧げた。「いま、一歩、前に、進みなさい」。コルベ神父の耳に、マリアさまの御声がひびいたのでしょう。コルベ神父はナチの所長の前に進み出た。「わたしが、この人の代わりになります」。餓死の地下室でも、コルベ神父は「けがれなき聖母」を見つめていた。マリアさまを見ていた。慰められていた。そのように信じます。
★また今日は、日本と、アメリカ、イギリス、オランダと太平洋戦争を開始した日でもある。1941年、昭和16年のことでした。わたしは13歳。その日、どこに居たか。長崎大学病院のベッドの上に居た。骨盤と背骨のカリエス、肺の肋膜炎の治療中でした。あの日の出来事は忘れない。日本の飛行機による真珠湾攻撃で、アメリカの軍艦を撃沈した。「バンザイ、バンザイ」。誰もが叫んだ日です。既に中国と戦争をしていたが、さらに暗い戦争の始まりだった。戦争に「バンザイ」は2度と叫びたくない。「戦争が、ありません、ように」。無原罪の聖マリアさまに祈ります。

2017年12月7日木曜日

尿が正常に出る。生かされているの実感。感謝のみ

先の日曜日から「待降節」に入り、祭壇の生け花の左横に、大小4本のローソクが置かれている。日曜日ごとに、1本づつ灯を増して行きます。いまは1本だけ灯をつけて、ミサを捧げます。待降節の日曜日は4つあります。そして御降誕の祭日・クリスマスです。
★昨日は病院へ予約の診察へ行きました。午後からの診察です。車で25分。高原修道士が運転です。面倒を見てくれます。ありがたいことです。2階、泌尿器科の受付へ。次に3階の検査室へ。普通ならば血液の採取、尿の採取があるのに、この日は尿検査だけでした。尿の判定が出るのは、15分ほどです。検査紙をもらって、泌尿器科へ。30分ほど待ちました。担当の先生から呼ばれて、診察室へ。問診。「尿は、血尿も、糖も、蛋白も出ていない。少々濁りがあるのはステントのためでしょう」「次の診察は、2月中旬。その時、血液、レントゲン、調べて、ステントの月を決めましょう。5月の連休明けか?」
★帰りの車の中で考える。よくぞ、1つの腎臓は頑張ってくれている。22歳の時から、もう90になろうとしている。私にとって、尿が正常に、普通に出るのが、ふしぎです。よく耐えたものです。「生かされている」とは、この事でしょう。感謝して、残された人生を生きよう。
★いま、ここまで書いたところで、男子職員が戸をノックして、姿を見せた。「変わりないですか。見回りです」「やあ、ありがとう」

2017年12月6日水曜日

昨日はホームの創立記念日。ハーモニカ演奏もある

昨日はホームの創立記念日でした。別に式典はないが、昼食に、大きな紅白のおマンジュウが食卓を飾った。お赤飯、お刺身、焼き肉などがあった。
ホームの創立は、1960年(昭和35年)です。57年になります。県から正式に認められた日で、ホームの歴史は、それ以前、10年ほど、さかのぼって続いている。戦争が終わると同時に、老人達が集まってきた。それを数えると、70年近くになります。長い歴史は、やはり誇りでしょう。
★トマは、1953年に、もう老人たちの養老院を知っている。会いに行っては、話しかけていた。最初は、名称はなく「養老院」と呼ばれる。正式に創立日から「聖フランシスコ養老院」となった。時代と共に「養老院」はなくなり「園」となる。
★長いホームの歴史の中で、園長神父さんも、次々と替わった。皆さん故人となられた。これまで多くの職員さんやシスター、修道士が働き、また、その数以上の人たちが生活している。墓地の十字架も沢山になった。ホームが、今日まで、つながれて行ったのは、基本にカトリックの愛の精神、フランシスコの心があったからだと言えよう。
★午後からは、3人の女性による「ハーモニカ演奏」があった。可憐な、細い音のハーモニカも、いいね。静かに耳を傾けると、心の奥に染み込んでいく。クリスマス、長崎の鐘、ふるさと、諫早の「のん、のこ節」など。職員が、皿を2枚、手に持って、チャカ、チャカ、言わせながら、踊った。この辺では親しみのある踊りです。時間は、30分ほどで終わった。
★今朝は、ミサの前に、考えた。老人ホームに居て、老人たちを見ながら、人生とは、何だろう? 人は生まれ、育ち、独り立ちをする。沢山の困難や愛情、喜び、悲しみに翻弄され、辿り着いたのが、ここ、ホームだ。色んな経験を背負ってきたが、大切なの「今」であろう。今を、どう生きるか。誰も、過去は語らない。自慢しない。今を懸命に生きている。苦しみが押し寄せれば、川に揺れる「ささ舟」のように、流れに身を任せるしかないであろう。
★今日は、午後から、高原修道士さんの運転の車で、諫早の総合病院へ予約の診察へ行きます。血液・尿の採取、検査があるでしょう。病院へ行くのは気が重い。

2017年12月5日火曜日

野々村哲さんが来る。トマの写真ネガ集を全て収録

覚えていますか、この人?野々村哲(さとし)さんです。
★15秒の出会いから、もう1人、塩沢美樹さんと「トマさんのことば」を編集した男性です。いま長崎・聖コルベ館の資料室に、トマが残した「写真ネガ集」が56冊あります。貴重な資料です。野々村さんは、写真が趣味で、トマのネガ集に興味を示して、56冊分のネガ集を全てパソコンに収録し終わりました。その収録を見せるために来られました。
★可能ならば、その収録の分から、心を魅せられる写真を集めて、写真集にまとめたい気持ちがあります。「トマさんのカメラ」になるかも。希望しております。56冊ですから膨大な枚数になります。そこから選ぶのはタイヘンでしょう。主な箇所を、持参のパソコンで見せてくれました。
★写真を撮った後、乱雑にするのではなく、ネガを小マメにまとめて、整理して、ファイルに残していたのが好かったんですね。コルベ神父と交流があった人物写真のネガ、ゼノ修道士と一緒に大浦を歩いて撮った貴重な写真のネガ、変遷する建物を写したネガ、聖母の騎士修道院には、ポーランド人司祭、修道士、日本人の修道士たちが、30人ほど生活していた時代のネガなど、貴重な記録となっています。
★1970年正月には、修道院の中で、修道士たちが1人1芸。落語、手品、小劇、習字、変装して歌うなど、盛り上ったカラーの写真もあった。カラーネガは痛みが激しかった。記録の大切さを思い知った日でした。野々村さんの働きのお陰です。
★写真を次々に見ると、当時の状況が思い出されて、人生の出会いは、大きな足跡、恵みであったのを感じました。野々村さんの協力に期待しています。

2017年12月4日月曜日

傾聴ボランティアの女性が訪問。話ばなしの時です

昨日、自室のテラスから見た夕暮れです。湯江教会のアンゼラスの鐘の塔が、すぐ前にある。左は教会の屋根。右はホームの建物、緑は「非常灯」。向こうに赤く焼けているのは諫早平野です。こういう部屋に暮らしております。
★昨日は「傾聴ボランティア」の女性が来られた。女性は聴くだけ。今年の3月から初めて、月に1度、1回は台風のため休んだので、9回つづけて来られた。こちらは、しゃべるだけ。1時間が過ぎる程、語ります。ホームで、こんなに長時間、語るのは、この時だけでしょう。女性は時折、私の言葉を繰り返します。バスを2回も乗り継いで、無料で、よくぞ来られる。感心すると共に、この日を待っている自分と、「さよなら」した後は、肩の荷が軽くなるのを感じます。ありがたいことです。
★語る内容は、毎度、同じでしょう。①ホームに入居した当時は、心的に動揺があった。退屈で、無気力。今は生活にも慣れて、落ち着いてきた。変わりなく日々を迎えるのが幸せです。②周りの人と摩擦が無いように気をつける。挨拶が大事です。③時折、新聞に掲載される「ホーム介護のよし、あし」。切り抜いて、参考にする。「施設は清潔で、不快な匂いはないか。職員の振る舞いは丁寧か。利用者の身だしなみは整っているか。介護する側、される側のチカラ関係、上から目線が固定化していないか」
★④心配な事。カラダのこと。ステントの入れ換え、考えますね。⑤三食、食べて、大のトイレが有って、よく眠る。自分の足で歩ける。この4つの基本があれば幸せ。⑥90までは頑張る。1つの区切りになるから。あと3ヶ月。⑦ホームの活動で、雲仙の青雲荘へ日帰りで出かけた。小浜(おばま・女性の住所)を通りましたよ。愛野の展望台が変っていたので、びっくりしました。
★昨夜の月です。夕食を終わって、3階の廊下で窓から見ました。「15夜は過ぎているよね。16夜かな」。急いでデジカメ取って、月を写して、鐘の塔の夕暮れを写した。この日も静かに、悩み無く、暮れて行きました。7時半に寝支度をして、8時前には床に入りました。寝るのが一番の楽しみです。「守護の天使よ、我が眠り、見守り給え」

2017年12月3日日曜日

100歳、大阪の孝子さんから、愛がこもった小包


大阪の孝子さんから、小包が届いた。この女性からの小包は、もう中を見なくても分かっている。袋入りのお菓子が、6、7個。それに黒の毛糸で編んだ帽子か、マフラーが入っている。ああ、やっぱり、そうだった。
★白の紙に、裏表に、孝子さんの直筆の手紙があった。「百才過ぎて、ご恩忘れず、編むマフラー。田川姓にかえれば、母恋し」。グッとくる便りだよ。「百才過ぎて」とは、孝子さんは大正6年、1917年4月生まれ。確かに、もう2018年になろうとしている。「ご恩忘れず」とは、一緒にポーランド旅行へ巡礼した。その事を示しているのだろう。
★裏に、まだ、文章の、つながりがあった。「すっかり、ご無沙汰していますが、ご容態いかがですか。チョコレートの原料、『カカオマス』。体に大変いいそうですよ。12月から寒さ、きびしくなりそうです。お大事になされませ。孝子」
★電話をかけたが、出ない。大きな建物の4階に住んでいる。2度、3度、訪ねたこともある。孝子さんは独り住いだが、とにかく、ジッとしていない。字を書いたり、絵を描いたり、手編みをしたり、カラダを常に動かしている。それが健康のヒケツだろう。時折、こうして便りや贈り物があるのは、ダツボウ、あるのみです。感謝して、みんなで分けて喜びました。孝子さん、いつまでも健康でいてください。

2017年12月2日土曜日

オスモウさん乗せて、ワッショイ。誕生会と忘年会

ホームの誕生会と忘年会。園長神父さまの話。「今月の誕生会をお祝いするのは4人です。忘年会も一緒になっているが、どうも自分は『忘年』はしっくりこない。神さまから沢山のお恵みを頂いた。それを忘れる。出来ないね」
★話とお祈り、カンパイとつづくなかで、別の部屋では、ごらんの出し物が準備されていた。「オスモウさん(介護の女性職員)を載せた『みこし』だね。ワッショイ、ワッショイ。担ぐのは介護の男子職員たち。チカラは強いよ。まかせなさい」
★食堂には皆さんが集まった。栄養師さんも炊事の職員も1人1人の好みに気をつかう。前もって、イチ、イチ、聞いて回った。すき焼きだけど、牛肉がいいか、豚肉か、魚がいいか、いろいろ有るンだね。細かいところまで、心を注ぐよ。本当に、80人近い人をお世話するのはタイヘンだよ。トマの隣に大曾神父さま、次が滝神父さま。このような席も職員さんが気をつかって場所を決めてくれる。この食卓は牛肉の『すき焼き組』だった。右の写真は、まだ始まる前だよ。「ハッピバスデイ・ツーユー」。誕生日を迎えるのは、いいね。12月で、今年は、これで全員が誕生会を祝ったことになる。平凡だが、皆さん、1つ歳を重ねたわけです。ここで出し物が入ってきた。食堂に、笑いや、拍手や、「モッテ、コーイ」の声がかかる。この『オスモウさん』ちょっと、重たいかな。見てもわかるよ。心配だな、落っコチなければ、いいが。
★この後は、例の「のど自慢」の歌が出たが、声を張り上げ歌うのは90歳代で、80歳代はおとなしくしていたようでした。楽しい日となった。歳を重ねるのもお恵みです。

2017年12月1日金曜日

ああ、もう12月だよ。早やーィ。いい年だったよ

今年は何の年だった?トリ年だよ。早いですね。12月に入りました。あと1ヶ月たったら、今年も終わる。「いい年だったよ。生かされているのだから」。来年はイヌ年になる。
★ホームに居て、毎日が変らぬ生活をつづけていると、時の流れは早い。12月は多々忙しいことだろう。11日(月)には、コルベ神父の映画があり、先日、NHKテレビ(長崎)から取材の申し込みがあり、19日(火)に長崎・聖コルベ館へ出向くことになった。まだトマから、しぼりだすモノがあるのだろうか。
★今日は、入浴した。午後からは、眼科の女医さんの診察があった。メガネは使っていないが、最近はナミダが出るようになる。聖書の文字がかすむ。
★待降節が始まり、やがて主の御降誕祭・クリスマスが来る。大人でも楽しみである。年賀状の準備もあり、12月は、あっと言う間に過ぎ去るだろう。「早やーい、ね」とお互いに話し合っている。自分を考える時、やはり根底は、来春は「90」になるという現実だろう。「歳に負けるな」「自分は90になっても走っている」という勇ましい人も居るだろうが、自分は、老いの中での年齢を考えてしまう。90歳は人生の一つの区切りに思う。90の老人に何が可能か、どんな生産性があるのか。年齢を意識せずには居れない。確かに、生きていれば、良いこともある。
★少年の頃、小学生たち、3,4人の仲間が居て、よく冒険に出かけた。暗い穴やトンネルや、森の中など、入って行くと、小1、小2の子が、怖くて泣き出す。すると小6の年上の子が「泣くな、シンパイするな。オレにまかせろ」。自信に満ちて言うのだった。すると幼い子たちは安堵の胸をなでおろした。いま、遠くなった昔の事を思い出す。「オレに、まかせろ」。そんな気持ちがあるだろうか。

2017年11月30日木曜日

ホームの外で楽しんだ。永井博士の心の歌に感動

昨日のホームの「日帰りドライブ」には、全員で18人が参加した。その中には、①園長神父さま、②バスの免許取り立てての男子職員さん、運転の担当。③バスの免許を持っている男子事務長さん、④女性の職員さん、⑤ボランチアの明子さんも入っている。お世話になりました。お陰で、車を押す女性2人も参加が出来て大層喜びました。
★最初、バスがホームを発車した時、園長神父さまの先唱で安全のためお祈りを捧げた。次に事務長さんが「今日の旅には、神父さまも2人、修道士さんも居られる」と一声あった。トマは思ったね。修道士さん、なんて、公に言われたのは初めてだよ。信者でも、トマには「お父さん」とか「オンちゃん」とか呼びかける。ホームに入って、長崎で、だよ。こう言われるのは、何やら抵抗を感じる。修道士さんと認められれば、気持ちは、いいね。気分はチト快調になる。
★ホームから離れて、皆さんも、にこやかな顔になり、楽しさ一杯を運んだバスは走りつづけた。女性の職員さんが「飴の入った小袋」を配る。バス内は静かな音楽が流れていた。トマは多くの巡礼者をお連れして、バスで長崎県内を周ったオラショの旅を思い出していた。あの頃は、よくぞ頑張って、解説もしたものだ。いい思い出です。
★雲仙岳の噴火は1990年に起こった。この時、初めて火砕流の恐ろしさを知った。あの煙のような熱風はテレビで見て、今も脳裏に残ったいる。しかし200年前の1792年にも実は島原に噴火があった。「がまだすドーム」資料館に最初に寄りました。勉強にもなります。
★それから雲仙に登る。憩いの宿「青雲荘」での「くつろぎ」楽しみは心を和ませます。カラオケで盛り上がり、音頭を取るのは園長神父さまで、神父さま自身もカラオケを熱唱しました。
★トマは、「古城」「長崎の鐘」を歌った。長崎の鐘の後で、滝神父さまが、マイクを持って、音楽ナシで「これは永井博士が2人の子どもさん、誠一(まこと)とカヤノさんに伝えたかった歌」と紹介して、歌い始めた。これが、前の歌のつながりで、モテましたね。いい歌でした。文句は次の通りです。
★(1)広い野原で何さがす、/いつか、なくした首飾り、/いえ、いえ、四葉のクローバを、/誰かにあげようと、さがしている。/あー、あー、その心を忘れずに。(2)いとし、両手で、なに祈る、/明日の幸せなれの夢、/いえ、いえ、つぼみの白バラが、/開けよ、咲けよと、ただ祈る、/あー、あー、その心を忘れずに。(3)小さき、お耳は何を聞く、/父の足音、母の声、/いえ、いえ、鐘の音(ね)、アンゼラス、/溢れる喜び、アヴェ・マリア、/あー、あー、その心を忘れずに。
★感動しました。拍手しました。よくぞ、こんな歌を覚えていたモンですと、感心もしました。音符は、ない。滝神父さまのアタマの中に音符がある。エライもんだと思いました。永井先生に就いては、大抵は知っているトマも、これは知らなかった。ビックリもしました。今度の「ドライブ」の収穫でした。
★今日から、12月7日まで、無原罪の聖母マリアの祭日前の9日間の祈りが始まりました。ホームでは、朝、ミサ後に唱えています。これは聖コルベの作った祈りです。念のため、祈りを載せました。お祈り下されば幸いです。

2017年11月29日水曜日

日帰りドライブ、楽しさと喜び。紅葉の美しさに感動


朝食は8時15分からです。日帰りドライブは9時出発です。あわただしい朝でした。島原から雲仙へ。小地獄の「青雲荘」に着いたのは11時30分でした。昼食、温泉、カラオケで盛り上がり、出発は午後2時30分でした。ホーム着は4時30分です。自室へ入ると、すぐ教会の祈りを唱えました。5時15分から夕食です。何が言いたいのかというと、時間が遅くなったことです。手を洗って、歯を磨いて、顔を洗って、ホットしたところでパソコンに向かっています。一番印象に残ったのは、車窓から見る秋の終わりの景色、紅葉の美しさでした。内容については、また明日でも記しましょう。楽しい、満足した一日でした。

2017年11月28日火曜日

生きているから、花も咲く。ホームも色々行事あり

ホームの隣、湯江教会の祭壇の生け花です。毎日、この教会で、早朝は、教会の祈りとミサ、午後3時15分からロザリオと夕べの祈りを共同で捧げています。祈れることは幸せです。「生きているからこそ、花も咲く」。そんな言葉もボンヤリと考えました。最近の気持ちは、どうですか?
★人生には思いがけない苦しみ、困難が来ることがあるんですね。それでも生きなければ、ならぬ。十字架を背負わなければ、ならない。神はそれを望まれる。ツライですよ。でも受けて立つ。最後まで背筋を真っ直ぐにして生きたいと思いますよ。
★金祝のお祝いの時に、お会いした五島・福江のスエミさんから「ふくれ・まんじゅう」を送りますからね」と声をかけられた。ありがたいことです。オラショの旅で、五島を巡礼した時、いつも「ふくれ・まんじゅう」の贈り物を頂きました。食べて、ゲンキが出て、笑いがバスの中で起こったものです。懐かしい思い出の「まんじゅう」です。ホームの栄養師さんに「ふかして」もらって分けて食べました。
★今日は、午後から車で20分ほどの歯科医院へ歯の治療に出かけます。台に上って治療に1時間はかかります。帰って来るのは4時前でしょう。
★明日は、ホームから「日帰りドライブ」に出かけます。9時出発だそうです。帰りは遅いでしょう。行先は雲仙の「青雲荘」です。残念ながら紅葉はもう過ぎたでしょう。豪華な昼食や、温泉、カラオケなどが楽しめるでしょう。ホームに居ても、結構、動き周る行事があります。「ホームにお世話になるなら、ゲンキなうちに入りなさい。生活に慣れる経験も必要です」と勧めます。

2017年11月27日月曜日

今年も歌って聞かせてくれた。東長崎教会の皆さん


ホームに来る慰問は、多々あるわけでは、ありません。年末が近づくと、毎年、来て下さるのが、このメンバーです。各個人の車に便乗して、約1時間はかかるでしょう。東長崎のカトリック教会の聖歌隊の皆さんです。聖歌はもちろん、「長崎の鐘」や、その他、懐かしい思い出の歌など、1時間ほど歌って慰めてくれました。善意が通じて、胸が篤くなります。激しい踊りの「ソーラン節」もありました。小学生、中学生が踊っていた。ゲンキやなァ。カッパツやなァ。子ども達が作った「クイズ」もあった。ちゃんと絵も準備していた。今年も歌声ありがとう。楽しい交流のひと時を過ごしました。楽しみにしております。

2017年11月26日日曜日

久義さんのファイルの行方は、どこだ?心配したよ

茨城の久義さんから、ホームにリンゴ2箱が届いた。「金祝のお祝いに参加したい。お土産を持って来ないから、リンゴを先に送ります。大曾神父さま、西山神父さま、村山修道士さん、トマさんで分けて食べて下さい」。トマは10個取って、後は3人で分けた。蜜が入った美味しいリンゴだった。自室の周辺の信者女性たちと食べた。
★久義さんとは、ご縁がある。彼が聖母の騎士園から、学園(小神学校)に入学する時、中学生の彼に「ラテン語」を教えた。当時のトマの日記手帳に記してある。1954年(昭和29年)2月20日「夕食後、久義にラテン語を教える。第1活用、第1変化、第2変化、来週は形容詞に入る」。2月28日「明日から代名詞に入る」。3月4日「神父さま、修道士、トマ、久義を呼んで茶話会」。3月27日「久義のラテン語、第5変化」。4月9日「久義、他2人の入学者も居た。神父さまと送別会。久義は小神学校へ行った」。「久義に冗談を言った。『ラテン語5の成績でないと帰ってくるなよ』。今となっては、日記の記事も懐かしい。
★金祝の当日、教会の中で、今からミサが始まろうとする時、久義さんがトマの席の横に来て、声かけた。「誰だ?あなたは?」「久義だよ」「ええ?変ったな。社長サンの如くある」。すると久義さんは、ファイルに収まった手紙のコピーを渡した。「この手紙で、人生、力づけられた」と言って、彼は少し涙ぐんだ。パラ、パラとめくれば、小神学校へ移った年の久義宛のトマから手紙だった。いま残念に思う。あの時、久義さんを写真に撮ればよかった。ミサが終わり、記念のパーティとなる。大勢の人数で、久義さんと話す機会を失った。
★パーティでは、トマは枝美子さん(竹内管区長神父さまのお母さん)の隣に座って、食べ、話し、すっかり好い気分になった。久義さんのファイルは、イスの下、床に立てて置いた。用件があって、席を外して、そのことでファイルの存在を忘れてしまった。帰りの車に乗って思いだす。高原修道士さんに頼んで会場を探してもらった。「ない、よ」の返事。がっかりしてホームに帰った次第です。
★その夜、枝美子さんから携帯に声が入った。「トマさん、大事な物、わたしが持っているからね。ハハハ(の笑い声)」。ああ、有ったのだ。安心して眠れた。翌日、ファイルは届いた。改めて、当時、自分が書いた手紙に遭遇したわけだ。久義が小神学校に入った年に4通。3年後の1957年の手紙が1通。年代の記載はないが、退会して、結婚する話があった頃の手紙が、2通あった。「秋になると、結婚式ですね」。そして長い年月が経過した。昨年か、結婚50周年の金祝を迎えた、と通知があった。こうした一連の流れを考えると、ジンセイって本当に長く、様々な出来事、出会いが起こるんだね、そう、しみじみ思います。久義さん、君の写真をも撮らなかったのが、残念だよ。この日記に載せたかったのに。リンゴでガマンするしかないよ。
★ファイルには、彼が入学する前にトマが書いたラテン語の手紙が残っていた。「いま読んで意味が分かりません」

2017年11月25日土曜日

「トマさんのことば」の2人に出会った。沖縄の司祭

金祝の日に、久しぶりに野々村哲さん、塩沢美樹さんに出会った。「トマさんのことば」の編集者です。今は、トマが撮った「昭和の修道士たちの写真集」をまとめて下さっている。白黒の写真で、下地になる写真を見せてくれた。ゼノ修道士、セルギウス修道士、カシアノ修道士など、ポーランド人の修道士、それに日本人修道士たちの生活写真、ポーランド・ニエポカラヌフ修道院の修道士たち、などなど、1970年代の写真で、懐かしい写真があります。「眠らせるのは、もったいない」意向で、取り組んでいる。どういう写真集が出来るか、これも楽しみにしています。期待しています。
★写真に収まっている、左から2人目は、稲国安彦神父さまです。沖縄の教会で司牧・宣教に活躍している。トマが小神学校(中・高校)のときの同級生です。9人居た同級生は、今、修道会に残るのは私たち2人になった。9人の内、3人が司祭になった。病気で既に帰天した。終戦直後のクラスだから、もう古い仲間です。稲国神父さまは、元気で、ゴルフもプレーしている。彼にも久しぶりに出会った。旧交を温めたというところです。
★ホームで今日は、火災非難訓練があった。老人にとって火事は恐ろしい。夜間の火事ともなれば、どいう状況になるか、考えただけでも暗い気持ちになる。だから皆、真剣に応じた。
★12月11日、月曜日。午後6時から、長崎のカトリック・センターで、コルベ神父の映画「二つの冠」が上映されるが、これは無料だが、要入場整理券で、教区本部(電話095-842-4450)に電話をして下さい、ということです。

2017年11月24日金曜日

ルーマニアとニッポン。2人揃って似合いの兄弟だよ

いつも出会ったら揃って写真に撮る2人です。名前は、ペトロ・イシトク神父さん。そう、もう何年になるかなァ。ルーマニアから「チビ」の神父がやってきた。2人揃って写真に撮ったとき、あまりにも格好が似ているので、高感度だったよ。
★「ニッポン、好き、好き」。長崎の聖コルベ館で2人は仲良くなった。見てください。いつになっても2人は、似たり、よったり、でしょう。優しいペトロ神父さんの動作・仕草が気に入った。
★この写真を見て、「チョッと、待てよ。ペトロよ、君は日本へ来て、ボクより小さくなったんじゃないか。たくさん食べているか。牛丼、食べて大きくなれよ」
★思えば、ボクの願いは、ペトロ神父と一緒にルーマニアへ行くことだった。本当だよ。マジメに考えていた。ルーマニアを2人で手をつないで教会を巡礼したかった。とうとう、その願いが叶わなかった。思い返せば悲しいよ。ルーマニアはカトリックの大きな教会があると聞いている。今度の金祝で、2人は出会った。今度は会っても、あまり詳しくは話さない。握手するだけで、心は通じるサ。東京の赤羽教会で、ミサ、お説教で、頑張っているのを聞いている。ホームにも、ゆっくり来て欲しかったよ。トマの狭い自室には、ペトロ神父さんがルーマニアから持ってきた織物のオミヤゲが飾ってある。赤色が部屋を引き立てているよ。これは離さないからね。ペトロ神父よ、兄弟よ、長崎のトマを忘れなさんな。

2017年11月23日木曜日

金祝・銀祝のお祝い。ミサと記念撮影と祝賀パーティ

「皆さん、おめでとう」。皆さん、ニコニコで、胸躍らせて、長崎・聖母の騎士で、お祝いがあった。司祭叙階50年金祝2名。沖縄の押川司教さまと、長崎の崎浜神父さま。修道誓願金祝2名。愛知県春日井の斉藤修道士さまと、長崎の山下修道士さま。修道誓願25年の銀祝は東京・下村修道士さま。以上、5名です。沢山の人たちからお祈りと、喜びの言葉のお祝いを受けました。
★まず、感謝の荘厳ミサが行なわれ、崎浜神父さまが説教された。この50年を振り返ってのお話でした。大浦天主堂で叙階されました。半世紀の長い年月、本当にご苦労が多かったでしょう。この日を迎えられたのは、「神の恵み」と誰もが思い、感謝の祈りを捧げました。参列者には、東京や京都、五島からも大挙して来られました。
★「やっぱり、いいですね。こんな祝いに参加できると、知人、友人、思い出の人に、親しく声をかけてもらった」。これからも元気で生きつづけたいと念じました。
★愛知県春日井の斉藤修道士さまは、かつて2年間ほど、聖フランシスコ園に勤めていました。それでホームからも斉藤修道士さまをお祝いして参加しました。一緒になって写真を撮りました。金祝の沖縄・押川司教さまを囲んでの記念撮影です。これからも最後まで神さまへの道を歩んでください。押川司教さまも一言と言われて、「お祈り、お祈り、これが一番大事です」と強調されました。

2017年11月22日水曜日

故・川添神父が詠んだ一句、コルベ神父の汚れ椅子

今朝のミサは、入江さんの依頼で、先日、帰天された長崎教区の司祭、川添猛神父さまのために祈られた。85歳。上五島の出身だった。
★私が長崎のクリニックへ診察へ行くとき、時々、入江さんも便乗して、カトリック大司教館に引退しておられた川添神父さまを訪ねて食事などをしていた。入江さんは熊本に住み、川添神父さまも熊本で司牧されている。その辺の知り合いだろう。
★川添神父さまは気さくな人柄であり、俳句も詠まれる。入江さんは黒の背広に、黒のネクタイで葬儀に出かけた。「葬儀ミサには、司教さま、司祭が120人は居ただろう」と帰ってから報告し、このカードをくれた。ニッコリ笑う故・川添神父。「ああ、この神父さまだ」。お会いしたことはある。俳句が1句、添えられてあった。「咲き終えて、ぺんぺん草の、吹かれをり」
★私は直接に川添神父さまと語り合う交流はなかった。聖母文庫で本を出している。今日は、その本を探して、修道院やホームの本棚を周った。「あった、1冊、みつけたよ」。230ページの本に、53の短編の文章が載っている。ページの合間に、幾つもの俳句があった。文章は軽い文脈で読みやすい。ページをめくっていくと、「コルベ神父」を見つけた。「なんだろう?」
★「この世に勝者、敗者があるのだろうか。それは人間というピエロたちが演ずる劇の一こまにすぎない。アウシュヴィッツの収容所で死んだコルベ神父は、ナチスの側からすると敗者であった。しかし神は、十月にかれを勝者(聖人)と宣言するのである」。ここで俳句、一句、「空梅雨や、コルベ神父の、汚れ椅子」
★今日は、雨。この本を傍に置いて、過ごした。愉快な、優しい、くだけた話を好む神父だった。ロザリオで冥福をお祈りした。

2017年11月21日火曜日

女子高校生からのお礼の手紙。若い字と文脈に喜ぶ

今月の初め、長崎・聖母の騎士で、旅行の女子高校生たち185名に語り部を勤めた。そのお礼の手紙が、届いた。旅に参加の高校二年を代表して「りな」さんが書いた。丁寧な、きれいな字で、文脈も立派、3枚に及んだ。
★「夏休みに『十七歳の夏』を読んで、戦争や平和、神の愛について考えたが、実際にお話を伺い、戦争は私たちが想像していたより凄惨で人間の本性をあらわすものだと知りました」。この『本性』の言葉に、「ああ、わかってくれたのだ、な」と感じた。
★生徒さん達の旅行・出会いの記念に、皆さんに、ハガキ版のカードを贈ったが、もちろん言葉はそれぞれ違っていた。「りな」さんには「他人と比べるな。あなたにも、いいところは、ある」が当たったそうだ。「これは今の私に一番必要な言葉と感じ、この言葉を胸にとめて、他者との関係を大切にしながら、自分らしい人生を歩んでいきたい」と書いてあった。
★早速、私は今朝から返事を書いた。「旅とは①本物を見ること。②地元の人と出会うこと。③自分が少しでも変ること。それらが実現すれば、より楽しい旅になるでしょう。お互いの交流が少なかったのが心惜しいが、私の話の内容は忘れても、『十七歳の夏』を読んだこと、その著者の老いた修道士が懸命に話したことは、覚えてくれて、語り草にして下されば有りがたいです。あなたの才能とチャンスを利用して豊かな人生を築いてください」と記した。封筒には、「りか」さんのために、小さな本「トマさんのことば」(私のサインと、「りか」さんの名前入り)を同封し贈った。
★高二の代表として手紙を書くのだから、心の負担もあったでしょう。小さな本だが、「りか」さんの傍に置いてくれれば幸いに思う。昨日、手紙を貰って、今朝、返事を書いて、何んだか今日は若い気持ちになるのを感じた。

2017年11月20日月曜日

カレーの五島ウドンにはタマゴが1つ入っていた

シンプルな昼食だった。カレーウドン。五島のウドンです。中細メンです。おいしんだな、これが。タマゴが1つ入っていた。小皿の2個は、ナンだろう?
★左隣の席は、滝神父さま。「トマ、ブログ、読んだぞ」。最近、ブログの読者の最も近い人は、隣の滝神父さまになった。「悲観するなよ。色々言う人も居るかも知れないが、いい働きをしている。聖コルベ館に居た時よりも、な」。理解してくれる人が傍にいる。楽しみにしてくれる隣人が、ここに居る。嬉しいよ。
★テレビを見ていたら、キュッと胸を打つセリフがあった。「ここに居た時間は、決してウソではない。もう1回、信じてみませんか。人生を」。瞬時に、心に飛び込んで来たんだな。ホームに居ても、決してウソの時間じゃない。生きる意味はある。希望は捨てないぞ。滝神父さまも「悲観するな」。そう言ってくれているじゃないか。グッと、胸を打っんだね。「これぞ」と思う言葉、セリフは大事にしたい。ピッタリ合うセリフに出会うと、嬉しくなる。発見の気持ちだよ。
★今朝の祈り。「神よ、ホームに居ても、私たちは、お互いに助けあい、協力し合って、幸せへの道を歩みます。神の子どもとしての自覚を忘れず、クチ・言葉をつつしみ、明るい表情で日々を過ごし、ホームのどの人にも挨拶で愛を示すことが出来ますように」
★そして今朝の福音を聴いた。「イエスは問うた。『汝、何を、してほしいか?』。目の不自由な人は答えた。『見えるように』。イエスは言われた。『見えるように、なれ。汝の信仰が、汝を救った』。民衆は、これを見て神を賛美した」
★今朝も、善い朝が明ける。そして朝から入浴もした。五島ウドンも食べた。「おかわりを」と栄養師さんが大皿に盛った「うどん」を見せたが、「もう、だいじょうぶ」

2017年11月19日日曜日

広島市から車でご夫妻訪問。ご縁つづけて感謝です

今朝、広島市から、岩本さんご夫妻が車で来られた。日曜日のミサで一緒に祈る。ミサの後での写真です。これで3度目の訪問だが、ホームを案内しながら、自室で語り合った。ご夫妻は、「エンジェル・キャブ」(タクシー・バス・霊柩車の会社)を経営しておられる。創業60年を越えた。社長さんです。鹿児島で、全国バス協会の大会があったので、車で回り、帰路まえに寄られたとの事でした。
★奥さんの八智子さんとは、お母さんがご健在の時からの「お付き合い」になる。もう40年前になろうか。私が「長崎オラショの巡礼の旅」を実行していた時、初めて2人で参加された。2度目は、幼い子供さん達を連れての参加となる。以来、私が広島へ行ったり、長崎へ来られたり、次男くんは、聖母の騎士学園で学んだ。今日の日曜日のミサには、大曾神父さまや西山神父さまも一緒に祈っていた。大曾神父さまは校長で、次男くんが学園でお世話になったのでご縁がある。その次男くんも今では3児の父となる。西山神父さまはパパさまに日本語を教えて、日本へ同行された事で知っている。八智子さんは、大曾神父さまに話しかけて、お礼を述べた。大曾神父さまも嬉しそう。90代に入られても、しっかりして居られる。訪ねてくれるのは喜びです。
★昼食は、車に乗せてもらって、有明海の海沿いの例の食事処で、楽しい食事のひと時を過ごした。ホームまで送って頂き、お別れした。最後に広島でお会いしたのは、3年半前になるか。あの時、ご主人から連れられたお店の、本格派の「テール・スープ」の美味は忘れない。それを語って、懐かしかった。「また広島へ、おいでよ」「ウン、まあ、ね」

2017年11月18日土曜日

あわただしい1日。きょうも暮れる。平安、無事

雑貨のスーパーです。昼食後、しばらくベッドに横になっていると、はや、2時に「ショッピング」月に1度の買い物に出かける時になる。ホームに暮らすことは、1軒の世帯に生活する状態です。何も、可も、必要になる。だから買い物には参加します。写真の店は、食べ物以外は、ほぼ揃っている。加湿器の水差しを買った。ここが終わると、次は「エレナ」食べ物のスーパーです。ブドウ、イチゴ、ふり掛け、チョコ、歯磨き、など買いました。赤い小型バスに乗って、15人ほどが買い物に出かける。
★午前中は「懇談会」があった。来月の予定や、看護師さんからの注意点など伝えられる。こちらも、はや、12月。年末です。誕生会や忘年会や、慰問や、高校生達の奉仕や、クリスマス会など、「出し物もあるので、お楽しみに」と職員のお言葉でした。
★11月も半分は終わった。23日には、長崎・修道院で、修道会の司祭叙階金祝、修道誓願金祝が行なわれる。会の司祭・修道士が顔を揃えるので、楽しみに参加するつもりです。12月になると、期待のコルベ神父の映画「二つの冠」がある。これも楽しみです。直ぐクリスマスでしょう。1月、お正月でしょう。年賀状もくる。2月は、トマさんの修道名「聖トマス小崎(日本26聖人)」のお祝いが来る。3月は誕生日。90歳だよ。こうして未来を考えると、色々楽しみがあるね。結局、いつまでも変らぬ元気で居ることだよ。

2017年11月17日金曜日

ジンセイ、生きていること自体が、ふしぎ。本当に

この言葉は、すごく人気があるのです。自分でも、そう思います。
★今朝は、信仰って、横にも縦にも「つながり」があると思いました。両親から受けている。隣人と一緒にロザリオを唱える。バチカンに行って、聖ペトロ大聖堂・内部の荘厳さに感動もした。外海の隠れキリシタンの信仰遺跡も知っている。今日はハンガリーの聖エリザベトの祝日だったが、1200年代に生きた王女で、3人の子供の母となり、ご主人が亡くなると、清貧の生活に徹して、貧しい人たちを助け、病院も建てた。何百年も前から同じカトリックの信仰を生きている。丁度聖フランシスコの時代でもある。
★私たちが今、信仰している信仰と全く同じなのか。そう、同じです。その根本は聖書だからです。今朝は、そんな事を考えた。でも信仰は、もう1つあると思う。それは私自身の信仰です。どれだけ本物の信仰に生きているか。本当に信じて行動しているか。反省の余地は色々ある。罪ある人間、弱い人間からの脱却。生きて改善する所は多々あるとも思った。
★今日は、ホームのお年寄りの葬儀・告別式が行なわれた。親しく、知っている人が亡くなるのは寂しい。1人の人生が終わった。「ふしぎなこと、多々あった人生だった」。結局、誰でも、そう言える。ジンセイって、本当に分からない。ニンゲンが生きていること自体がふしぎなのです。

2017年11月16日木曜日

高原修道士さんの誕生日。2人でお祝い。頑張る男

定期の診療日。朝から長崎へ。この日は何やら気が重い。高原修道士さんの運転で車は走る。2人とも、クリニックで診察を受ける。「タガワ・ブラザー」。先生の大きな呼び声に、待合室の人の目が自分に向けられる。「お世話になっています」。大声で診察室に入る。部厚いカルテ。通院の年期を示している。先生は「どこかで語り部を出来ないか」の意味の言葉で私に未だ期待している。フタ言(こと)、ミ言、先生と交わして終わる。血液を採取される。薬の処方箋を貰う。体調は、いいのか、不具合なのか、自分でも、何とも言えない。
★高原修道士の誕生日。昭和34年(1959年)の今日、熊本市に生まれる。満58歳になる。彼には、どれほどお世話になっていることか。彼の手引きでホームへも入居したし、毎月、こうしてクリニックへも連れて行ってもらう。感謝の意味で、お昼ごはんは、御ちそう、しよう、と途中の行き付けのレストランへ立ち寄った。牛肉専門のお店です。お酒は昼間だから飲めないが、デッカイ、ステーキに、テール・スープ、その他いろいろ、満腹する程、(いや、わたしが)食べて、お祝いした。修道士とはいえ、日常、いろいろストレスが溜まる事もあろうが、頑張ってください。修道士の召命も全うしてください。そう願いながら、彼の運転でホームへ戻った。