2016年1月26日火曜日

遠い宣教師の思いは、いまも忘れない。今を生きる恵み

今週の湯江教会・祭壇の生け花です。
★朝ミサで祈りました。聖福音は、主が、弟子たち、72人を選び、宣教に派遣するところが、読まれました。「この家に平安あれ」と言いなさい。「愛と平和をもたらす宣教者」です。
★遠い北朝鮮の、子どもの頃を思い出した。この町には最初は、教会も司祭も居なくて、カトリックはわたしの家が一軒だけ。それでも宣教師は見捨てなかった。年に1、2回、南の方の修道院から列車に乗って、ドイツ人の神父さんが泊り込みで来られて、カトリックの教えをつないでくれた。神父さんのご苦労が、いま、わかる。宣教師はどの地方にも入っていく。あれから80年近く経っても忘れない。生まれた時もカトリック。いまも、カトリック。人生をつないできた信仰は、自分の背中になっている。しかし人生を振り返れば、破壊された原爆。結核の苦しみ。自由を奪われた強制収容所。愛を貫いたコルベ神父。いろいろあった。
★人間とは、何だろう?。神さまから出て、神さまに帰っていく存在である。いのちの存在を与えられた自分は、弱点があり、汚れもあり、罪もある。神の恵みで聖化されなければ、神へは戻れない。「きょう、あるのは、神の恵みに、よる」(コリント一・15)

2 件のコメント:

  1. 最近の小崎さんの日記強く心に響きます。
    祈るとき響いたこと黙想しています。
    感謝の内に

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