2013年8月6日火曜日

20年前の新聞記事。原爆・語り部デビュー。今は引退

朝のお勤めを済ませ、食事の後、洗濯物を干しているとき、「ウー、ウー」とサイレンが鳴った。「ああ、8月6日、広島・原爆の日」と、手を合わせて、鳴り止むまで、アタマを垂れて、黙し祈った。「2度と、原爆が無いように」。その願いをこめて。あと3日たつと、長崎・原爆の日になる。思い出したよ。20年前の、この日。原爆の語り部となった。自分が体験した破壊力、多くの悲惨な死者と、助けを求めて叫ぶ負傷者たち。現実は余りにも厳しかった。「原爆を落とし、多くの市民を殺傷したアメリカは、なぜ謝らないのだ。ダメだよ、こんな武器を使っては。誰もが、そう思う」。その中で、行動した自分の行ないは、またザンネンだった。ニンゲンの弱さと言うのだろう。悲しい体験が、そこに有った。それらも含めて、若い少年・少女たちに、また青年たちに、語り継いでいこう。率直な願いから、語り部を10年ほど続けた。「死んだ者も悲しいが、生き残った者も、心に深いキズを受けたのです」。生きても苦難、死んでは悲惨だよ。結果として、よく、まあ、原爆を生き抜いてきたと思う。放射能より恐ろしいものは、この世にない。原発事故、2年が経過しても、まだ汚水が解決していない。1日も早い収束を望む。

1 件のコメント:

  1. 永井隆博士は原爆の生き残りについて、「天国の入学試験の落第生ですな」とコメントしていました。合格するためには、原子野の中に「踏みとどまって、骨と共に泣きながら建設を始めようじゃありませんか」。(『長崎の鐘』)
    長崎の町は復興を遂げても、心に受けた深いキズに終わりがくるのは最期の時でしょうか。
    オリバー・ストーン監督はこの夏、広島・原爆の日に続き、長崎、沖縄を訪れる予定だとか。アメリカ政府は謝罪しないにしても、あの国の有名人でかような行動をとる人がいることに、幾ばくかの光を見出したい。そんな気持ちになります。

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