2013年5月31日金曜日

ホタルの里に、イタリア料理店。淡いヒカリに酔いました

月曜日、トマのところに、入浴介護のヘルパーさんが来た。入浴中に、休みの日に家族で、ホタルを見に行ったと、教えた。そのことを修道院の食卓で、話すと、「え、ホタル、ねえ。懐かしいな」「行って見たいね」など意見が飛び交い、木曜日に、炊事のお手伝いさんがお休みを願っているので、この日の夜に見に行ってみよう、と実行しました。夕べの祈りを、きちんと果たします。ロザリオ、聖務の夕べの祈りを皆さんで唱えて、それから出発しました。クルマで、20分ほど走る。山手に入り、看板があった。「ホタルの里」。まだ明るいので、まだホタルは居ない。ちょうど、看板の前に、イタリア料理の店があるではないか。写真は今から、その店に入ろうとしている。イタリア料理は、ホンモノでした。イタリア留学や、滞在の体験がある者が大勢、居たので、皆さんは満足していただいた。食べるほどに、飲むほどに、あたりが暗くなってきた。お店の人の勧めで、「今が、見所の時間です」。30mほど降りると、橋があり、暗闇の中に、黄色く光る「ホタルだ」「おお、ここにも、ホタルだ」「居た、居た」と声を上げて、喜んだ。ホテルを見て、また満足した。参加者、8人。帰りのクルマの窓から、山手に光る家々の電灯が、ホタルの光に見えた。「ホタルの光、窓の明かりよ」。文化が進めば、ホタルの光も消えていく。悲しく思いながらも、9時には、帰宅した。

2013年5月30日木曜日

いい思い出、沢山つくろう。楽しさが、瞬発力になる

今の生活は「生きる」ことを考える。からだの機能は、完全ではない。しかし残された部分で、精いっぱい、生きていく。それで、いいのですと自覚している。むかしは、ゲンキだった。ルルドの上の運動場まで、走ったまま、到達していた。それだけ、パワーがあった。今は、もう出来ない。足腰、痛い、残された能力で、満足して、十分、生きていけば、いいのです。★女子高校生たちが、10数名、聖コルベ館を訪ねた。「修学旅行は楽しいか。いい思い出を、いっぱい、つくってください。それが幸せです」。そんな気持ちで迎える。女子高校生たちに何を話すか。いつも悩みます。コルベ神父の事を語りたい。だが、これは難しさも、ある。自分の経験を話した方が、話に迫力は、ある。コルベ神父からイノチを助けられた男性は言った。「自分はイノチもらったために、苦しんだ。自分が、生きていいのか、悩んだ」という話をした。コルベ神父に、恩は返せない。これからは、別の場所で、別の人に返していくしか、ない。君たちも、恩は、先生に、恩人に、家族に、十分に返せないよ。だから別の場所で、返していく。その気持ちで、人生を生きたいと思う。★出会いの、楽しみ。祈りの、楽しみ。それぞれ有るけれど、愛する、楽しみ。有るだろうか。愛とは、いっしょに居て、楽しい気持ち。愛とは、同化したい、気持ち。燃えるものが感じられるか。「この世で、いちばん大切なのは、愛と、イノチなんですね」。その思いを、枯れさせては、ならぬ。


2013年5月29日水曜日

教皇さまのハンカチ。愛の話を聞かせてください

聖コルベ館の資料室を整理していると、ビニール袋に包まれた「ハンカチ」が見つかった。説明に「法王ヨハネ・パウロ2世が、1981.2.26 長崎・松山でのミサ中に使用されたハンカチ」とあった。大きさは、42cmと、43cm。端には、赤く、シミがある。汗が出られたのだろうか。いや、あの日は、雪が舞う、寒い寒い悪天候だった。雪を払いのけたハンカチかも知れない。記念に大事に保存しておこうと、包装した。★今朝も5時に起きました。調子は良好です。常に、自問自答しているのは「ニンゲンとは、何だろう?」です。ニンゲンは生物だから、老いて、やがて枯れるでしょう。死を受け入れる心構えは大切ですと、理屈では分かります。死や、罪からの救い、母から教えられたカトリック。その基本は「神さまが愛してくださること」にあります。教えを信じなさい。希望を持ちなさい。★聖コルベ館に来る人に、声をかけたい。愛の話を聞かせてください。イノチの話を聞かせてください。平和の話を聞かせてください。


2013年5月28日火曜日

アメリカ軍艦の従軍司祭、コルベ部屋で、平和と愛を祈る

知り合いの神父さんが、1人のアメリカ人を連れて来た。「おお、ここが聖コルベの部屋か」。彼は、コルベ神父の粗末な机に寄りかかって、アタマを垂れ、黙して、祈っていた。「祖父が、ポーランド系だった。神学生の頃から、聖コルベを尊敬していた」「神父さんですか?」「横須賀に着いているアメリカの軍艦、従軍司祭です」。偉いなあ、が感想。軍艦から上がって、上智で黙想して、26聖人に泊まって、ここに来た。軍隊だから、いろんなストレスもあるでしょう、若いのに、それを乗り越える、人間としても修養に、大変だ。「コルベ神父の、どこに惹かれた?」「見知らぬ人のため、イノチを捧げる愛」。軍艦の乗組員、4分の1が、カトリック。司祭は、1人。牧師が、3人。言葉が通じないのが、ザンネンだった。帰った後の、サイン。「ジョウジ・ワシントン」とあった。★コメントに「動画を見た」と書き込んだ、フランチェスカさん、北海道でしたね。いま、スズラン、咲いていますか。小学生の頃、スズラン畑で、大の字になって、仰向けになった思い出が、なつかしい。韓国・大邱へ行ったとき、広がる大きな葉っぱの畑はあったが、残念ながら、花が咲いていなかった。


2013年5月27日月曜日

教会で結婚式を挙げた夫妻が、男の子を抱えて1年半ぶりに

ルルド祭りには、参詣者が多かった。何箇所から、シスターも来る。シスターを志願している女子中学生・高校生も、10人ほど来ていた。若い人たちが、お参りに来るのは、歓迎ですね。もちろん、お年よりも、そうですが。若い頃から、聖母マリアへの信心を持つのは、喜ばしいことです。写真の夫妻は、広島から来ました。「2011年10月に、聖母の騎士の教会で、結婚式を挙げました。1年半ぶりに来ました」。かわいい男の子。9ヶ月になる。「かわいいなあ。名前は?」「和馬(かずま)」「馬って、?」「ゲンキがいいじゃないですか」。夫妻は、幸せそう。「幸福を願うよ」「マリアさまのお水、汲んで、帰ります」★パソコンで、「小崎登明」を検索してみた。「削除」と出るが、思い切って、クリックすると、「部屋」や「日記」の項目、「通信」などの項目が、並んで出てくる。下の方に、「聖コルベ記念館で、小崎登明館長とーyou tube」と出てくるから、クリックすると、動画が出ます。2013年2月ですが、この動画で、小崎修道士の考えの内容が集約されていて、自分でも、よく話していると、満足していますので、1度、クリックして、見てください。★入浴・掃除のヘルパーさん(男性)来る。現川(うつつ・かわ)に、ホタルを見に行った話をしてくれた。150匹のホタルがいた。子どもが手のヒラに囲んで、「きいれい」と歓声をあげた。「ああ、まだ近くにホタルが居るんだね」


2013年5月26日日曜日

空は晴れて、ルルド祭り。聖コルベの愛と平和を祈った

恒例のルルド祭りの日です。聖コルベがこの地に修道院を設置したのが、1931年、昭和6年の5月でした。その翌年、32年、昭和7年の5月に、ルルドを開いた。あれから今年で、81年になる。★このルルドに最初に来たのが、母親と一緒で、昭和18年、43年、15歳の春だった。あれから1人でも来るようになり、自発的に掃除などもしていた。やがて修道院内にも出入りし、ローマン修道士制作のご像を磨く仕事も手伝った。原爆の後で、正式に入る。結局、ルルドへの参拝が、この道に導いたと思う。ルルド祭りの度に、感謝の心が湧いてくる。★コルベ神父はポーランドへ帰る。戦争に巻き込まれる。クリスマスのお祝い日に、700人も居るニエポカラヌフ修道院の皆さんの中から、20人ほどを呼びかけて、一堂に会したとき、コルベ神父が打ち明けた。やがて戦雲が来ること。自分はマリアさまから天国を約束されたこと。そのお示しは、長崎に居たときに示されたこと、など。「長崎の、どこですか?」。場所は教えなかった。修道士たちの憶測で、「ルルドでは、ないでしょうか」。このルルドは聖コルベが最も好きな場所だった。★ルルドの聖母を仰ぐとき、「戦争前も、戦争中も、戦後も、同じように、手を合わせ、長崎の町の方へ向かって祈る聖母マリアを思い出します」。お恵みがある。ありがたいですね。★原爆医師、パウロ永井隆博士も、原爆で重傷を負ったが、癒される奇跡の恵みをいただいた。★今年のルルド祭りの司式・説教は、滝神父。大勢の信徒が参加し、祈った。


2013年5月25日土曜日

色紙を描いた1枚です。ボタンの花はよく描けている?

原爆の被爆者は、年に2回、春と、秋に、健康診断がある。どこの病院の検査でも、同じ数値が出るんでしょうが、原爆の血液検査は抜群によいと、信頼している。そこで、先日、検診に行ってきた。検査の数値は、10日ぐらい経ってから、郵便で通知してくれる。昨日、その数値が届いた。1番、気にしているのは、腎臓の機能です。昨年は、尿が出ずに、6回も入院した。ニガイ思い出がある。あの時は、腎臓が腫れて、機能が低下した。幸い、尿が出始めると、機能が復帰してきた。今度の数値は、「クレアチニン、1.09」「尿素窒素、15.6」、肝機能「GOT、24」「GPT、16」、いずれも正常でした。イノチは神さまのことです。ニンゲンは生命を伸ばすことは出来ない。感謝ですね。「苦しみがあっても、希望を持とう。苦しみは必ず、喜びに変わるだろう」。そのように信じて、生きて行きたい。★明日は、恒例のルルド祭です。天気は上々のようです。午後から、ルルドのお水、500mlを400個、準備して、参加者に配布するそうです。聖母の騎士のコルベ神父のルルドのお水は、活力と癒しのお水です。祈りが、こもっている。


2013年5月24日金曜日

ああ、あのアシジの聖フランシスコ大聖堂・献堂記念・祝日

思い出します、アシジの聖フランシスコの大聖堂を、忘れません。今日は献堂式のお祝いで、聖務と、ミサで祈りました。朝、食事のとき、「献堂されたのは、何年ですか?」と問うた。食卓のメンバーには、アシジの大聖堂で生活した修道者が、5人もいる。アシジの話になると、盛り上がる。すぐ答えが返ってきた。聖フランシスコが亡くなったのが、1226年。2年後には、聖人にあげられる。翌日、起工式がおこなわれて、1239年には、完成した。献堂式は、1253年になっている。写真は大聖堂の夕暮れです。何度も訪ねました。何日も泊まりました。修道院にも泊まりました。ユスチノ田川幸雄修道士の想い出もある。アシジは何度でも、行きたい、憧れの巡礼、祈り、黙想の場所です。聖フランシスコの生き方は、すべては神さま、人間も、動物も、流れる水も、大空も、すべては兄弟、姉妹です。何も持たない、愛だけ持っている。あこがれるんですね。そういう心の時代が人生にはある。持たない人が強い。執着しない。安堵がある。人の心は肉体に閉じ込められているから、打ち明けなければ、わからない。もどかしさは、ある。本当に幸せになるには、聖フランシスコよ、教えてください。


2013年5月23日木曜日

ヘタな色紙も、言葉が光る。あなたを支える、珠玉の一句

聖コルベ館の玄関、スタンドに置かれている色紙の数々。絵は確かにヘタですよ。それでも、言葉がヒカル。この言葉が難しい。経験に基づいた一句ですからね。「今は、苦しいかも知れないが、これは摂理です。そのうち、喜びの時が来るでしょう。苦しみは、喜びに変わる、これが基本のようです。苦しみは、苦労のみで終わっては、余りにも寂しい。今は苦しくても、希望を持ちなさい。そこにゲンキが出る。★次の日曜日。26日は、10時30分からルルド祭が始まる。ロザリオを唱えて、玄義の丘を祈りつつ登り、ルルドでミサがある。参加者が、聖コルベ館にも寄るでしょう。色紙に目がとまって、買ってくれると有り難い。そんな目算もあります。★「主につながれておれば、豊かな実を結ぶ」「コルベ神父の、ルルドのマリアさま、必ずお恵み、くださる」「愛のあるところ、苦しみなし。たとえ苦しみありとも、のち喜びとなるべし」「孤独ではない。あなたの、そばに、主は、居られる」


2013年5月22日水曜日

気温、上がる。体調は、よし。朝は、5時に起きて、祈ります

さつきが咲いた。聖コルベ館に立つアシジの聖フランシスコのご像。足元に,赤い「つつじ」が咲いた。雲仙も今、つつじが満開だそうだ。オバマ温泉に行きたいが、いま原稿を書いている。今度の原稿は、当然、韓国への旅。「今の時代に、原爆医師・永井博士の何をアピールするのか。やっぱり愛ですね。如己愛人。信仰に燃えるなら、韓国・大邱へ。おすすめ、ですよ。これが終わらないと、行けない。朝、5時に起きて、聖堂で祈る。ありがたいと感謝する。静かに、思いめぐらす時間も、30分はどある。いろいろ雑念がさまよう。「状況の説明でなく、生き方が知りたい」。身辺の記事でなくて、その人の生き方、悩み、苦労が、どのように変わったのか、その推移に興味がある。「とは言え、最近は、キレがよくないね。わかります、自分でも」


2013年5月21日火曜日

教皇さまの写真を入手。いい写真だね。資料室に3人の客

パパさまの写真を入手しました。いい写真ですね。気に入りました。教皇フランシスコ。1936年12月17日、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれ、76歳。イエズス会員です。アシジの聖フランシスコの名前を名乗りました。貧しい人たちを、こよなく愛するパパさまです。このカードの裏には、「憐れみ、そして選ばれた」と書かれている。★聖コルベ館に、母と、娘と、孫娘(小2)が入ってきた。しばらく資料室を見ていたが、修道士に声をかけた。「少し、お話しを聞いてもらっても、いいですか?」「ええ、いいですよ」と、黒い長イスへ導いた。母が言うには「自分は仏教だが、なぜかマリアさまに心引かれる。6年前に主人が病気をして、大浦へ行くと、コルベ神父さまの暖炉があった」「お母さんは、暖炉の所で泣くんですよ」と娘。自然に涙が出てきた。遠藤さんの「沈黙」「女の一生」、1部も、2部も読んだ。長崎のコルベ神父も読みました。★ニンゲン、迷いや、弱さや、欠点など、いろいろ有るが、コルベ神父さまのような人も居る、それが人間の希望ですね。自分で、自分の、ジンセイを、つくろう。人のセイにするな。受け身じゃダメね。与えられた生。自分がつくっていく。何が真実なのか、自分で作ったと、満足すれば、それが幸せでしょう。★ざわざわと、韓国の人たちが入ってきた。雲仙の殉教祭に参列し、祈った皆さん28人だった。母と、娘と、孫娘は、立ち去った。


2013年5月20日月曜日

東京から1泊の夫妻。ひょっこり、やって来た。うれしいよ

午後、自室で、しばらく過ごす。部屋に居ると、聖コルベ館へ行きツライ。「怠けに、なるな」と自分に言い聞かせる。3時過ぎに、聖コルベ館へ出ると、資料室に3人の女性がいた。福岡から来たという。「諏訪神社と、ここに来た」。話していると、2人づれ、夫妻が入ってきた。一瞬、「やあ、ヨブさんじゃ、ないか。よく来たね」。東京のヨブさん。洗礼名が、ヨブを頂いた。毎年、姿を見せる。もう、5、6年になるか。「急に思い立って、1泊とまりで来ました」。鉄工所の仕事をしている。このように思い出したように、ご縁をつないでくれる、ありがたい。韓国の話など、語った。「今度は、東京へ行きたいね」。韓国で自信がついたから、東京へ。しばらく行っていない。「東京へ行けば、どこへ行きたいか」。あるんですね、行きたい場所、会いたい人も。「昭和館へ行って、古い昭和の、思い出に、触れたい」。古臭いかね。でも、やっぱり、少年の頃が忘れない。夢があったから、ね。これから開ける可能性があった。「その時は、世話になるよ」


2013年5月19日日曜日

甘夏ミカン、大きいな。送ってくれて、ありがとう

大きなミカンだよ。甘夏(あま・なつ)です。外海の田川家から奥さんが送ってくれた。これが、おいしんだね。みずみずしくて、ね。家の山に、木が10数本あって、毎年、鈴なりに、生っていた。主人の福松さんが収穫していたが、病に倒れて亡くなった。採取する者が居なくなった。奥さんは寂しく、足も不自由で、ままならぬ。でも毎年、収穫してきたので、子どもさんが帰って来たとき、頼んで取ってもらった。もう木にも、あまり生らなくなった。寂しいね。これを食べると、亡くなった福松さんを思い出す。外海で生まれて、外海で暮らしてきた。戦争で、ビルマ戦線で苦労した。殆どの仲間は戦死したが、かろうじて、生き残って、帰ってきた。苦労の話は殆ど語らなかった。まじめな人だったよ。教会のためにも、心底、働いた。人の一生って、ミカン、見れば、寂しいなあ。残された者は生きるしかない。


2013年5月18日土曜日

奉仕のシスターたち。巡礼に来る。ゆっくりお祈り、癒す心

マザー・テレサのシスターたちが、やってきた。大分の別府からクルマで来た。「この間も来たでしょう。いっぺんに来れないから、第2陣です」。簡素なシスターの服がいいですね。大分を出て、聖コルベ館には、ちょうどお昼ごろになる。「昼ごはん、食べてもいいですよ」。シスターのお弁当は、本当に簡単です。「皆さんも、生きているワケだから、それ、相応の収入がなければね」「いいえ、大丈夫。十字架、面倒、見てくれる」。大切なのは、信頼ですね。神さまに、信頼する。お任せする。これが凡夫には難しい。欲があるからね。共同体で、こころは一緒。これが大切です。わがままでない。写真は、コルベ神父の身代わりのビデオを見ているところ。もの静かなシスターを迎えると、こころも和みます。「5月は、聖母月です。ルルドへ行って、祈りなさい」「祈り、忘れたら、ダメね」。個人、個人にも、霊性がある。神さまの愛、感じますか。喜び、感じますか。


2013年5月17日金曜日

ガンと言われて、5年目。予約の診察日。今度も無事か、な?

予約の診察へ出かける。気が重いですよ。早めに、白浜さん運転の車で、泌尿器科へ。前の診察のときに出していた『細胞診』は幾らだろう?これが気になる。尿うぃ採取して、しばらく待っている。呼ばれて、「お世話になります」「韓国、旅行しましたね?」「ハイ、無事に行ってきました」「キムチ、食べました?」「辛いものは食べません。腎臓、1つしか、ないから」「ああ、そうだったね」「細胞診、幾らでした?」「どれ、どれ。1、ですよ。全く正常です」。ホットする。『イノチ、つなぐ、そんな気持ちです』(よかったなあ、とは、こころの内)。「次の診察のとき、ステント、入れ替えの時期、決めましょう」「ハイ」「6月下旬か、7月初め」「わかりました」。これで診察は終わった。もう1度、ホットして、門を出た。帰りに、耳鼻科へ寄る。左耳の治療を行なう。果物屋で、スイカの切れ端を見つけた。(スイカは、腎臓に、いいからね)「スイカ、ください」「400円です」。聖コルベ館へ戻ると、11時だった。


2013年5月16日木曜日

資料室が、若者の声で賑わった。ゲンキをもらったよ。夢も

若者たち、いらっしゃい。ゲンキを伝える。清さを伝える。人はね、出会いながら、成長していくのだよ。他者を助ける。人から助けてもらう。人を愛する。人から愛される。許してあげる。許してもらう。それらが、スムーズにいって、私たちは幸せになる。勉強することは、いっぱい、ある。長崎へ来て、いい思い出を作りなさい。長崎って、いい町だよ。コルベ神父も、6年間、過ごした。長崎を愛していた。好きな町だった。コルベ神父さんは、どんな逆境にあっても、希望を持ちなさい、愛することを止めてはいけない、信じることを失ってはいけない、と自ら模範を示して、苦しみを、安らかな気持ちで生き抜いた。コルベ神父が居ることが、人間には、悪に負けない希望がある。


2013年5月15日水曜日

26聖人の映画を見せて下さい。夫妻が涙を流した

閉館近くだった。2度、電話があった。「映画、見れますか」。3度目、小崎修道士が電話に出た。「26聖人の映画が見れると、聞いた。今日、見れますか」「ハイ、大丈夫。待っています」。夫妻は、駅からタクシーに乗った。3泊4日の長崎初めての旅。タクシーで間違って、途中、下車する。また乗り継いで、着いた時には、閉館時間だった。「どうしても26聖人が見たい。殉教地も行った。資料館も見た」「わかりました」。ホールを暗くして、プロジェクターで、昭和6年制作の「日本26聖人・我、世に勝てり」を上映した。久しぶりに小崎修道士も一緒に見た。1時間20分かかる。聖務の時間は過ぎ去り、夕食の時に食い込む。山田五十鈴も出る。片岡千恵蔵も出る。「ニ等兵物語」の伴惇三郎も出る。立派な活動写真だ。白黒の雨降り映画だが、後半になると、夫婦は、すすり泣きが聞こえた。我ながらも、感動を新たにする。「ただ、ただ映画を見たい」。このような熱意のある夫妻は初めてだった。「長崎を、いい思い出にしてください。お礼は、いりません。旅の安全を祈ります」。おみやげに、日本26聖人のDVDと、説明を差し上げた。別れを惜しみつつ、夕暮れの町を、タクシーで去って行った。祈りを飛ばし、食事に遅れたが、苦労の割には、さわやかさが残った。


2013年5月14日火曜日

まだ生かされる。ありがたい。痛くても、朝は来る

退職して、10年になるという男性は、おいしそうに、お酒を飲みながら、つぶやいた。「まともに、働いたけん、安心が、ある。平和たい」。なるほど、味のある言葉だな、と思った。「いまは、三味線を習っている」「優雅や、な」と応答した。しばらく、沈黙が、つづく。手前が、言った。「そうやな、ジンセイ、いろいろ有ったが、まだまだ生きている。フシギやな、思うよ。生きているのが、ありがたい」「そうや、そうや」と、相手も、納得してくれた。ジンセイとは、なんぞや。誰かが言っていたな。「人生は、与えられた、時間だ」と。確かに、そうだな、と納得する。短く生きる者も居れば、長く生かされる者も居る。誰に、どれほどの時間が与えられるか、分からない。精いっぱい、生きようではないか。自分のジンセイ、大切にしよう。「若いころ、よく病気したよ。苦しみの最中、出て行け、という人も居た。だが、助ける人も居た。乗り越えてきたんだよ。まだゲンキが残っている。痛いところ、いろいろ有るが、まあ、ガマンすれば、明るい朝も来るさ」。相手の男性は、黙って、お酒を注いだ。言葉では言わぬが、人間は、肉体ばかりでなく、霊的なものも持っている。肉体も、生かす、霊的なものも、成長させる、そうでなければ、充実したジンセイとは言えないよ、な。


2013年5月13日月曜日

なぜ長崎巡礼に来る?長崎で韓国の人は何を感じるか

昨年は、韓国から、聖コルベ館には、年間、2.000人の巡礼者があった。信者も多い。祈りも、聖歌も、盛大に行なっているのに、なぜ、長崎へ巡礼に来るのか。韓国を周りながら、ふと気づいた点がある。教会は多い。施設も立派だ。しかし長崎には、大浦へ行けば、神父発見、200年隠れていた信者が、「サンタ・マリアさまは有るか」「あなたは独身か」「ローマにつながっているか」。人間の生き方がある。コルベ神父、26聖人の3人の子どもたち。浦上へ行けば、永井博士、3.384人の旅への殉教、外海へ行けば、ド・ロ神父の働きがある。つまり「ジンセイの生き方の模範」がある。そこに引き付けられるのでないか。「韓国にも、そのような人が居るのですか」「ハイ、居ります。お医者さんで、貧しい病人を無料で診る。沢山の教会を建てる。子供には財産は残さない」。そういう人は居る。だが、やっぱり生き方が、人を引きつける。そう感じました。長崎へ来る1つの憧れではないでしょうか。★1人の神父さんが、隣の席に座った。「どこかで見たことがあるカオだ」。考えて、思い当たった。長崎へ巡礼の案内で来る司祭だ。「何回、行きました?」「45回」「え?びっくり。45回も行って、どうしても忘れない事、1つ挙げれば、何ですか」と問うた。神父さんは、しばらく考えていたが、やがて熱っぽく言った。「原爆資料館、最初から、天主堂の崩壊や、死者、負傷者の残酷さ、やられた、やられたと、沢山ある。なぜ戦争を始めたか。周りの国、謝罪、少しだけ、最後に、あった。ザンネン、それ、感じます」。日本人は、自分たちだけが、やられた、やられたと、訴えていいのか。もっと周りの国の人のことも考える。韓国、中国、東南アジアの国々。日本の侵略戦争。どれほど悲しみ、苦しみを与えたか。戦後、日本はアメリカに頼って、人まかせだった。自らの反省も、賠償もなかった。それに比べて、ドイツは自国で賠償をなし、復興にチカラを入れた。そこが違うのではないか。もっと自力での日本再生が必要、覚悟がいるのでないか、そう思った次第です。


2013年5月11日土曜日

韓国の旅の介護役・白浜忠美さん。荷物運びにアセ流す

「あなたが、居たから、事は、スムーズに、運んだ。無事に、終わって、うれしいよ」。今度の韓国の旅で、忘れてはならないのが、介護役の白浜忠美(ただみ)さんの働きです。彼の介護役が居なければ、実現しなかったでしょう。1人では、決行できる旅ではない。旅に先立ち、荷物は、出来る限り、少なく持とう。2人とも、リュックを背負い、手に1個の手提げをさげる。計、4個。みやげは、カステラ3個。永井博士の「みどり夫人昇天の図」150枚。これだけで行こうと決めた。白浜さんは韓国は初めてです。何でも、めずらしい。同行して、彼の隣に居て、白浜さんの興味は、職業柄(今まではクルマの運転を勤めていた)「韓国のクルマのスピード(出しすぎ)と、道の広さ(狭いですね)、それに、山に生える樹木」だった。いま白浜さんは、ルルドの清掃を勤めている。植木などを手がけている。だから樹木に目が行くわけだ。「トマさん、スイ、スイ、早く歩かないでください。ゲンキなんだからね」と、グチをこぼす言葉もチラ・ホラ聞いた。2人の旅だから、頼もしかった。白浜さんのいい所は、何でも出された食事は完食することです。みんな、平らげるので、韓国の人は喜んだ。結構、韓国のお酒も飲んだよ。★写真は、大邱の山、殉教者の隠れ家の遺跡で写した。


2013年5月10日金曜日

車椅子の女性、ブログの最初からの読者。会えて嬉しい

2月20日に、茨木から手紙が来ていた。「みふみさん」という女性からで、5月9日に、長崎に来るというのです。「ああ、まだ先だね」と思っていると、その9日が来た。そしてご本人がやって来た。車椅子の女性でした。お顔が、とっても、いいんです。和やかというか、白髪が、とっても、きれいです。ホレボレしました。騎士誌の愛読者です。ブログも毎日、読んでいます。最初からの読者です、と言われる。「小崎サン、何でも、いいから、書いてください。1行でも、いいんです。慰めになります」。十七歳の夏、長崎のコルベ神父、身かわりの愛、長崎オらショの旅など、4冊を抱えてきた。愛読者です、たまらないよ。うれしいね。「いま、心に浮かぶことは、何ですか」「何年か前に、脳の病気で、倒れました。不自由になった。信じて、従って、行く。病を、捧げることか、な」。苦しみの意味が分からない。『長崎のコルベ神父』を読んだ。コルベ神父が、ミロハナ神学生を、修道院で一番大事なところへ案内します、と言うんですね。行った先は病室です。病人が捧げる犠牲があるから活動ができる。病ならば、お望みになることを果たす。今度、ミロハナ神学生は長崎に来て、自分が病気になり、失望しそうになった。コルベ神父さまが慰め、励ました。「パウロの、喜びなさい。絶えまず、祈りなさい。いつも、感謝しなさい」。これですね。車椅子の生活だと、いろいろ苦しいこと、不自由なことも沢山ある。言葉の暴力も受けます。それでも耐えていく。「小崎サンは、いつぞや、ブログに書いていた。「この道しか、なかったんだ。これで、よかったんだ。この道で、幸せに、なりなさい」。そして女性は言った。「ああ、今日は、小崎サンに出会って、よかった」。色紙を2枚買って帰られた。「みふみさん、幸せになってくださいね」


2013年5月9日木曜日

トイレで助けられ、転倒で助けられ、無事に終わった旅

韓国旅行中、気をつけていたことが、2つあった。①転ばないこと(コケないこと)。②トイレが近いこと。病気がら、トイレが近いのには、参ったね。腎臓が活発に動き出すと、15分おきに行く。テグで、4日間、教区のクルマで運転してくれたのは、トマ崔相烈さん(写真・上・1954年9月2日生まれ)でした。お世話になりました。テグの都市は、東西に長い。あっちに走り、こっちに走り、遂に「トマさん、トイレに行きたくなったよ。どこかトイレはないですか?」。町の中には公衆トイレはない。でもトマさんは運転しながら、うなずいた。「ええ、大丈夫ですよ」。連れて行かれた所は、何処と思いますか? 何と、お巡りさんが居る交番でした。「警察、大丈夫だよ」。トイレだけ、すませて「カムサンムニダ」。捕まえられなかったよ。②転ばないこと。3回、転びました。危なかったね。1回目は、和食の食事処で、石段を踏み外して、「アッ、アブナイ」。幸い、転ばなかった。2回目が、ホテルの食事処を出るとき、段差があった。「これも、アブナイ」。3度目は、帰りの空港で、空港バスに乗って搭乗機に向かうときです。バスの上り段が高すぎる。段で転びそうになった。すると韓国の若者は偉いね。上から手を差し伸べて、老人を労わり、満席のイスを押しのけて座らせてくれた。無事、飛行機に乗って、釜山を出発した次第でした。「トマさん、ありがとう」「助けてくれた若者よ、カムサンムニダ」


2013年5月8日水曜日

韓国の皆さんにお世話になった、自信もついた、恵みの旅でした

すばらしい旅行でした。今までは、騎士の場所にだけあって、小さなことにクヨクヨして、ああ、ここが痛い、このことが気になるなどと、細かいことに、イライラしていた。それが韓国という海を飛び越えた異国の地に来て、大きな気持ち、おおらかな心、それに韓国の人びとの素晴らしい信仰の熱気に揺り動かされて、それは、それは、盛り上がりました。カラダも前よりも、ゲンキになったように自信がつきました。韓国の皆さんに、本当にお世話になって、これ以上のお恵みはないでしょう。ゲンキが出るよ。もう30年、40年も前に、海外旅行に出かけていた、あの頃のパワーが全身にみなぎってくるのを感じました。最初は少々不安もあったが、何よりも無事に終わったのは、大きな自信につながりました。「よかったよ」「お恵み、いっぱい、もらったよ」「いい感じだったよ」「素晴らしかったよ」。帰って来たとき、仲間の神父さん、修道士さんは皆、口を揃えて、次のように言ったね。「疲れたカオじゃない。いいカオしているな」。★写真は、釜山の近郊のビーチ、広安里で出会った韓国の子どもたちです。どこの国の子どもも、よく、言うことを聞きますね。「交通事故に気をつけるんだよ」「アニョハセヨ」


2013年5月7日火曜日

韓国への旅。7日目。長崎へ、旅を終わる

今度の韓国の旅で、最もお世話になったのが、パウロ崔玉植・教授(1935年5月19日生まれ)です。写真の先生です。中学・高校は、李文煕・大司教さまと同級生だった。だから、とても仲がいいわけです。信頼もある。教授は、ソウル大学・物理学科を出て、軍隊を4年勤めて、オーストリア・ウイーンに6年間、留学した。韓国へ帰って、大邱・嶺南大学の教授になる。30年勤めて、2000年、フリーとなる。退職して、名誉教授。1996年、初めて長崎へ巡礼。2006年、如己の会をつくり、会長となる。「李・大司教さまは、お祝いされるイヤです。逃げるね。長崎へ巡礼、逃げるね」「崔先生、大変、お世話になったね。先生が居なければ、こんな素晴らしい旅は出来なかった。釜山空港に出迎えて、クルマの世話から、食事の世話、食べるものも、ちゃんと配慮している。和食、韓国食、洋食、中華料理、キジのシャブシャブ、牛肉のシャブシャブ、みんな、配列がいいよ。感心だな」というと、崔・教授は、「ボクは、やりたく、ないんだが、命令だよ。李・大司教さまが全部、仕込んでおられた。ボクは、それを果たすだけです。ボクは、何にも、しないよ」と謙遜される。「エライ教授だよ」。それに教授の日本語にはマイッタよ。「シャクを起こさないように」と言う。「なんの、ことか?」。不審に思っていると、思い当たった。「シャク」とは、癇癪(かん・しゃく)のシャクだった。★大邱市内から、30kmほど離れた、山にある、殉教者の山、殉教者が暮らした家々の再現跡(オンドルが懐かしかった)がある。傍らに、スズランの広い群生があった。残念ながら、花は未だ咲いていない。見渡すと、大きな施設の、黙想の建物、神学生の研修の建物などがある。殉教者の墓がある、山へと少々登る。先までは行かなかった。敷地は、4万坪があるという。その壮大な設備に驚愕した。とにかく韓国のカトリックはスゴイよ。あらためて見直したよ。★シスターの修道院へおじゃました。玄関で、シスターが迎えてくれる。先ず、修道院内の資料室を見学する。立派な展示に感心した。歴史を大事にするのだろう。次いで、夕べの祈りに参加した。イエス聖心侍女会。白いベール、修練者が10人、黒ベールのシスターが20人、皆さんは心も声も合わせて、詩篇を、立ったまま歌う。神さまに祈りを捧げる敬虔な心、神に犠牲を捧げる、我が身をもって。清らかに生きる。結婚しない。己の弱さに打ち勝つ。修道の原点に帰る思いがした。他者に奉仕するも、祈りで捧げるのも、いっしょ。神は何を望み給もうか。神の望みは、その人に与えられて、召命を果たしていく。「我に、成れ、かし」と。隠れたシスターたちだが、聖堂の祈りにつながっている。1人じゃ、ない。汝を、孤独に、残さない。聖堂を見れば、高い天井、簡素な壁。細やかな配色のステンド・グラス。夕べの祈りを聞いているうちに、涙が出てきた。「罪人の我を清め給え」「我が過ちを許し給え」「神よ、我がタマシイを受け納め給え」。もう、日本にこのような光景はあるか。悲しいかな。日本の信仰に、誇れるものが、あろうか。

2013年5月6日月曜日

韓国への旅・6日目。聖堂でミサ。長崎巡礼と李・大司教さま

大邱(テ・グ)の司教座聖堂で、ミサで祈る。戦争前の聖堂が、そのままの姿で建っている。桂山聖堂。ゴシック様式聖堂で、史跡に指定されている。信徒はイッパイ。全員が歌い、大声で祈り、そのすさまじさは、圧倒される。ああ、長崎にも、こんな情景があったなあ。カトリックのふるさとが、ここにあった。日曜日には、朝から夜まで、8回のミサがある。いつも満席だ。皆は、司祭につながり、司祭はローマにつながる。イエスにさかのぼる。時代は変わっても、信仰の教えは変わらない。★昔からの聖堂だ。聖体の聖櫃がある。十字架。ステンド・グラスの美しさ。聖体ランプがさがっている。説教台もある。韓国の信徒は、500万人。大邱教区は、43万人の信徒が居る。司祭は、450人。引退司祭が、30人。李文煕・大司教さまも「わたしも、引退だよ」と言われた。★この度、招待してくださったのは、李文煕大司教さまです。2007年に引退された。李文煕大司教さまは30数年の現役中に、さまざまな業績を残された。毎日新聞社をつくる。カトリック大学、大学病院をつくる。黙想の家をつくる。信仰面にもチカラを注いで、信徒を、長崎へ、長崎へと、巡礼に送り出した。李文煕・大司教さま自身が、100回、200回と長崎に巡礼されている。「なぜ、そこまで、されるのですか?」と、李文煕・大司教さまに尋ねた。すると、こう言われた。韓国教会200年の祭りがあり、1984年5月に、ヨハネ・パウロ2世教皇さまが韓国を訪問された。信仰を盛り上げようと、日本への巡礼を考えた。最初に、日本へ行ったのは、クルシリオの信徒達です。次々に巡礼した。有名なガイドの権さんは、150回は皆さんを連れて行ったでしょう。彼はガンで亡くなった。後では信徒たちが巡礼するようになった。その中で、永井隆先生の生き方、信仰に敬服し、見習うように皆さんに広めたのです。韓国語で、永井先生の本も出版した。日本語にも訳された。ドイツ語にも訳された。韓国にも、永井の如己の会も誕生した。会員は100人以上居ます。小崎修道士を招待したのは、李文煕・大司教さまであった。小崎修道士が韓国入りを果たしたとき、残念ながら李文煕・大司教さまは入院しておられた。しかし数日のみ、外出をもらって、看護師さんが付いて、自宅に帰ってきた。その夜、自宅に招待されて、家庭の料理をご馳走になった。李文煕・大司教さまは、小崎修道士を「聖コルベ館の奉公人」と称して、親しくしてくださる。今度も、招待された。自宅での楽しい語らいがつづいたが、最後に、小崎修道士は、テープ・レコーダーを回して、音楽入りで、「長崎の鐘」を絶唱した。拍手喝采で喜ばれた。李文煕・大司教さま、健康に気をつけて、いつまでも長生きしてください。★李・大司教さまのお宅マンションで、記念の写真を撮った。左から、小崎修道士、李・大司教さま、白浜忠美さん(長崎出発から、介護・付き添って、荷物を運んだり、手伝ってくれた)、後ろが、崔・教授です。★大邱のホテル。Eldis Regent Hoter(エルディス・リージェント・ホテル)。大邱の市街地図を見て、桂山聖堂の最も近いホテルを選んだ。正解だった。

2013年5月5日日曜日

韓国への旅・5日目。ルルド聖母堂の崔・大司教の説教

大邱教区のタデオ曹煥吉・大司教さまは、永井博士の作文コンクールで、小崎修道士の話を聞いてくださった。写真が、その曹・大司教さまです。その次の日は、日曜日でした。教区本部に、ルルドの聖母(野外)堂があります。大きな、立派なルルドです。何人もの信者が、常に祈っています。写真・中央が、そのルルド聖母堂です。灯明を捧げ、信者に混じって、祈りました。白浜さんと1連を唱えました。★5月5日の日曜日、夕方、ここで教区主催の祈りの集いが行なわれた。下の写真が、そうです。2.500人の信徒が集まった。まずロザリオが熱心に称えられる。その後で、曹・大司教さまによる司式の、ミサが行なわれた。大司教さまの説教のなかで、韓国語はもちろん分からないが、次の単語だけは、はっきりと分かったのです。「長崎」とか、「小崎修道士」、「永井隆」、それに「マキシミリアン・コルベ神父」など、繰り返し、度々言葉が出ていたので、ああ、昨日の講演のことか、と思った。割と詳しく語っておられる。崔・教授の通訳によると、「小崎修道士が長崎からいらっしゃった。永井隆先生について話した。コルベ神父と、永井先生は親しい関係がよく分かった」。その後で、おまけも、あった。「いま、日本は再軍備の動きが懸念される。日本の武装が心配になる」と語っていたそうだ。いずれにしても、昨日の小崎修道士の話が、ルルド聖母堂の祈りの集会で、大勢の信徒に紹介されたのは、ありがたいと感謝の心が湧いた。★教区本部には、聖職者の墓地がある。ここには、日本人の司教、早坂司教の墓地もある。長崎の早坂司教の弟さんで、韓国に司教として着任されたが、戦後、間もなく、ここで亡くなられた。墓地で、祈りを捧げた。早坂久兵衛・主教。1888年12月16日、宮城県仙台に生まれる。1942年12月25日、主教叙階。1946年1月7日、帰天。★聖職者の墓地の門に、次のラテン語の文字が、両脇にあった。「HODIE(今日は) MIHI(わたしに)CRAS(あすは)TIBI(あなたに)」。今日は、オレは死んで行くが、明日は、オマエだからな。覚悟をしておきなさい。 
 

2013年5月4日土曜日

韓国への旅・4日目。いよいよ本番。晴れの受賞式で頑張る

大邱邱 テグ(たい・きゅう)の李・大司教さまから、ご招待があった。「第4回永井隆博士全国作文コンクール受賞式があるので、いらっしゃい」。そのお招きに応えて来たのだが、いよいよ今日が本番となった。会場に、受賞者の中学生・高校生たち、その家族たち、関係者たちが多く集まった。まず長崎から来た小崎修道士が紹介されて、講演が始まった。通訳は、崔・教授です。時間は30分ぐらいだった。「そう、長くなかった」の評です。講演の後で、受賞式があった。作文は昨年までは、多く集まったが、昨今の日韓関係の事情によって、集まりが少なかったと嘆きの声をもあった。それでも91作品が寄せられた。その中から、中・高の作文の佳作者10数名、優賞者が数名、最優賞者は中学生1名、高校生1名が選ばれた。若者たちが、このように日本の永井博士を知ってくださる、その熱意に本当に嬉しく思った。韓国の人たちに感謝した。賞をもらった人たちは、大きな喜びであった。★小崎修道士を招待した李文煕・大司教さまは、残念にも、この日の3日前に、急な病気になってカトリック大学病院へ入院されていた。その代わりに、現在の大邱邱(テ・グ)の教区長・タデオ曹煥吉大司教さまが参加された。曹・大司教さまは小崎修道士の話を聞いて、内容に新鮮さを受けたらしく、最後の総評において、小崎修道士の内容を繰り返されて、強調されていた。それを聞いて、良かったなと思った。★小崎修道士は次のように語った。「永井先生を知る者として、本や研究から纏める話ではなく、永井先生の体臭というか、先生が愛したバラの香りというか、そのような肌で感じる話が出来ればと思います」。そう言いながら、幾つかの問いを設定しながら、永井先生の生き方で答えていった。例えば、人生には出逢いがある。出会いによって、大きな影響を受け、ある時には人生の方向も決まる。コルベ神父との出会いは大きなお恵みだった。原爆で、首を負傷したとき、コルベ神父のルルドの水で癒された。コルベ神父は強制収容所の苦難を受けたが、永井先生は原爆をうけた。いかに苦難を乗り越えたか。「人生には時折、大きな苦難が来る。いかに、これを乗り越えるか、人それぞれに課題がある」。最後に、「永井先生から何を学ぶか」。コルベ神父は「友のため命を捨てる、これ以上の愛はない」。永井先生は「如己愛人」。」なぜ彼らは愛の道を命をかけて守ったのか。それはイエス・キリストが我らのために愛を行なってくださったからです。平和の原点は、人間の痛みを分かってあげること。永井先生のように愛の人になろうではありませんか。

2013年5月3日金曜日

韓国への旅・3日目。フランシスコ会の修道院を訪ねる

いよいよ行動を開始する。大邱(テ・グ)から、崔・教授が広安里ビーチまで迎えに来てくれる。釜山駅から、KTX列車に乗った。大邱までは、45分。大邱では、先ずはコンベンツアル会の修道院を訪問した。庭で、修道服の姿を見たときは、本当に嬉しかったよ。「おお、兄弟よ」と思わず叫んだね。やっぱり、フランシスコの修道服はいいなあ。早速、用意していたカードを配った。話題は、アシジや、聖フランシスコや、同級生の故・ノ・景三神父や、同級生の故・ラウレンチオ伊原神父のことを出すと、話しが、すぐ通じる。ありがたいね。教会は立派だ。赤レンガ造りの教会へ入ると、内部も立派だった。韓国では、祈りが絶えない。庭では、子ども達が何やら隊列を組んで、青年達が指導していた。子どもの日が近いのだろうか。年配の司祭が出てくる。早速、これにも準備していた「聖コルベ館とコルベ神父」のカードを渡した。庭の道路に、土や、砂利があるのが、珍しかった。修道院の図書室や食堂に案内される。コーヒーや、お茶のご馳走になる。道を挟んで、信徒会館では、騎士信心会の集会ミサが行なわれていた。信徒が100人も居ただろうか。熱心さが、伺えた。ここには司祭が、7人いる。修道士はいない。修練所があり、3人の修練者がる。★国籍が違うと、考え方も違うだろう。同じものがあるとすれば、価値観だkrだ。人はなぜ祈るのか。なぜ働くのか。親切への、ありがたさ。人の気持ちは、国が変わっても、ありがたさは変わらない。信念とは何だろう?信念とは、人生の終焉を迎えたときに、「ああ、これで、よかったのだ」と思える生き方、そこに有るのでないか。自分のために生きるのではない。他人のために、何かお役に立ちたいと、そう思って、ひたすら生きる。これが信念では、ないのか。★大邱のタワーにも登る。塔の上は、回転レストランになっている。広がる市街。食事をしながら、全市内を一周して、眺めた。

2013年5月2日木曜日

韓国への旅・2日目。広安里のビーチでゆっくりと過ごした

ホテルの部屋は、16階であった。窓からの、広安里ビーチをスケッチする。1日、窓を見ていると、いろいろな変化が分かってくる。朝は、左側から、真っ赤な朝陽があがる。大陸の太陽は、バカでかい。少年の頃、北朝鮮で見た太陽も、そうであった。とにかく大きいのだ。懐かしいなあ、と思う。砂浜が美しい。朝、早くから、トラクターが出て、時間をかけて砂を整理している。夜になると、海にかかる大橋に、赤や、緑、青などの電灯がつく。これが、また幻想をさそう。ちょっと、飛行機で飛んで、僅かな時間でクルマで来ると、景色が一辺する。こんなに変化があるんだな。文化も違う。人も違う。ふしぎな感じがする。★朝食はホテルのバイキングだから、いいとしても、昼まし、夕食に何を食べるか、これに迷う。今度の旅は、介護をしてくれる白浜忠美(ただみ)さんと一緒。2人旅であった。結局、夜は、ステーキを食べた。固い肉だった。ジャスミン茶はおいしかった。9.200ウオン。2日目は、昼は、サシミ定食を食べる。サシミ、にぎり、サンマの焼きサカナのお腹の太いのには、びっくりした。煮サカナ、茶碗蒸し、テンプラなど、2人で、7万ウオン。夜は、野菜スープと、スパゲッチィで簡単にすませる。6万ウオンだった。6千円になる。キムチや辛い食材は遠慮する。腎臓に良くないからな、と自覚する。お酒も飲まない。尿が沢山でている。旅行のときは、困ったものだ。器具が悪いのか。暖房のリモコンが作動しない。ボーイさんを呼んで、取り替えてもらう。部屋には、風呂がない。韓国人は風呂に入らぬらしい。シャワーだ。日本人向きではない。ガマンする。6階に大きなサウナがあるが、入りたくない。こうして静かな夜はふけていった。★写真は、泊まったホテル。19階がレストラン。16階に部屋があった。ホテルを出ると、すぐコンビニもある。生活に便利である。日本の漢字の看板は全くない。

2013年5月1日水曜日

韓国への旅・1日目。福岡から釜山へ。広安里ビーチに泊る

福岡空港から、飛行機で、登ったかと思ったら、降下を始める。35分で、韓国の釜山空港へ着いた。飛行機賃は、片道、6,150円。安い値段だ。飛行機は、エア・プサン。空港からクルマで、45分、走ると、もう、このような静かな「ビーチ」へ到着した。何と、早いことか。もう、ここは異国だ。長崎も、あの人のことも、すべて遠くの方へ行ってしまった感じがした。ここは「広安里ビーチ」という。日本人の観光客は全く居ない。こういう所を知っているんだな。周辺に、高層マンションが立ち並び、韓国人たちが、早朝から、海岸に添って、ジョギングをしている。先ずは韓国に来て、ゆっくり休むことが出来た。★19階建ての、「ホメロス・ホテル」に泊まる。眺めが、抜群によい。実は、この「隠れたビーチ」を知っているのは、数年前に、2度ほど来たことがある。韓国人の神父さんに案内されて、ホテルも知った。さあ、これから韓国の旅が始まるぞ。まず精力をつけることだ。長崎を出るとき、「クシャミ」などしていたから、半ば大丈夫かな、と少々心配気味でもあった。だが、ここに来て、ゆっくりなって、よかったと思う。★両替、1万円は、10万6千3百ウオンだった。NHKのテレビが入る。★遠く離れたビーチで、すべてを忘れる。しかし聖務日課は唱えた。これで修道院のみんなにつながっている。その気持ちが湧いてくる。韓国の人、見知らぬ人を見ていると、「なぜ、カトリックなのか?」と自問も起こる。周りの韓国人たちは、この世のことだけに、せいイッパイ働いているかのように見える。しかし祈りや、詩篇を唱えることによって、つながりを感じる。ふるさとの黒崎の信者や、教会にもつながる。人は霊的なものを感じて生きねばならぬ。