2013年2月28日木曜日

「コーちゃん」と母は呼んだ。幸一は、いい名前。でも使わない

父と母の、いっしょの写真、1枚だけ残る。原爆で、すべてが燃えた。この写真は、どこに保存されていたのか。もう覚えていない。今朝は、この写真を、暖かい眼差しで眺めた。明日は、誕生日です。両親が居て、子どもが居るわけだから、父母に、感謝の気持ちが湧いてくる。「よくぞ、幸一、という名前を付けてくれました」。幸一という名前は、気に入っている。父は、46歳で、北朝鮮で亡くなった。1度、墓参りに行きたいと思うが、核実験の現実を見ると、危険を感じて、とても行く気持ちになれない。「ごめんね」と言うしかない。母は、45歳で、原爆で行方不明となる。骨も拾えなかった。こっちも、「ごめんよ」。母は、父とは、11歳も年の差があった。若い母は、「コーちゃん、コーちゃん」と呼んでくれた。いま、両親に会ったら、修道士の服を見て、びっくりするだろう。「コーちゃんは、小崎修道士になったよ」「よくぞ、その道を選んだのね」。これまで沢山、祈ってきたから、この身に満足してくれるだろう。★今年になって、1月、2月と、早や、2ヶ月は過ぎた。これから先、どれほど生かされるか。動ける間は、がんばろう。昨夜のテレビのドラマに、こんなセリフがあった。「あんまり、下ばかり、向くな。上を向いて、深呼吸の1つでもすれば、まあ、なんとか、なるさと思え。人生とは、どの道、しんどいモンだ。それでも投げずに、生きていりゃ、お天とサンは、チャンと見てくれるよ」。こんなセリフが好きだな。両親の、言葉かも、知れん。

2013年2月27日水曜日

今日の出会いに、神さまの導きが、ある。喜びを持って生きる

「いらっしゃい」。京都から、ご夫妻と、女性。左は、長崎の案内人。見学の客が見えると、えがおで、迎える。皆さんは、ひじょうに、喜びますよ。「喜んでくれる」。その喜びが、当方にも、跳ね返って、戻ってくる。この「喜び」が、心に湧いてくる。これこそ、生きる証しです。人に尽くすことから、湧き出てくる「喜び」です。「あれを、した」「これを、した」と、行為を並べるのでなく、そこから生じた「喜び」にこそ、生きる意味もあり、価値もある。京都のご夫妻は、何年もかかって、日本26聖人が歩いた道を歩いて、きのうの夕方、西坂の殉教の丘に達したことで、貫徹した、と嬉しそうでした。「ああ、それは良かったね」と、共に、喜んだ。「記念に、色紙を買いなさい」。お父さん、最初に、パッと見た色紙、カニの絵で、「あなたの人生で、すごく、ふしぎなことは、なかったか?あったよな、沢山」を、即座に、手に取った。結局、4枚、買い求めた。「ああ、よかった」。当方も、喜んだ。★朝、5時に起きて、早朝に、聖務の詩篇を祈る。唱えながら、なぜか脳裏に、ポーランドの修道者たちの、祈る姿を思い出した。彼らは、祈った。わたしも、祈る。ポーランドの修道者から、愛された。ミロハナ神父さん、カシアノ修道士さん、ロムアルド舎監の修道士さん、印刷のゲラルド修道士さん。ありがとうね。反対に、追い出そうとしたポーランドの司祭もいた。★今朝の祈り。「神は、遠い存在では、ありません。今日の出来事のなかに、愛である神の導きと、お守りの、真実があります。それを信じて、今日の出会いを待ちましょう」


2013年2月26日火曜日

早やーイ、日記を見て、隣の町から女性がお祝いに。嬉しい

早い電話で、びっくりした。きのう、「本当の誕生日は、2月25日です」と書いたら、すぐに電話が入った。「日記、見ました。来ても、いいですか?」「どうぞ。午後の3時過ぎなら」。応接間を暖めて、待っていると、3時過ぎに、タクシーが玄関に停まった。隣の町から来た若い女性。もう長年の顔見知り。女性が言った。「おめでとう。心温まる、充実した1年に、なりますように」。差し出されたのが、写真の、3点セットです。「ありがたいですね」。1時間半、向かい合って、おしゃべりしました。ほとんど、手前が語りました。ごめんなさい。せっかく来てもらったのに、「まあ、当方のお祝いだから、いいでしょうね」。何を話したかって?いつも、同じセリフ。「85歳にもなれば、つくづく、生かされているのを、感じます。カラダの具合も、微妙なところで、生きている。せっかくだから、ゲンキを出そう。おまけに、ニッコリ、ほほ笑んで、皆さん、いらっしゃい」。これだけで、今は、十分でしょう。気持ちは、単純なんですね。女性は、帰りしなに、色紙を注文しました。先ほどの日記に載っていた(2月3日の日記)、この色紙を頼みます。「苦しみにも、意味がある。汝(なんじ)、今は知らざれども、後には、之(これ)を知るべし」。女性も、若いのに、さまざまな苦労を耐えているようです。知っています。苦しいでしょう、でもね、信頼して、希望をもって、耐えて行けば、必ず後では、開けるし、安らかに、なる。そう信じて、がんばろうね、と思いつつ、背中を押して、タクシーを見送った次第です。

2013年2月25日月曜日

誕生日が終わると、ステントを入れ替え。イノチをつなぐ

原爆で、行方不明になった母親は、「ほんとうは、ね」と言った。「あなたの誕生日は、2月の25日なのよ」「生まれた場所が、北朝鮮でしょう。日本から、遠い遠いところです」「外海の役場に届けるのも、遅くなったのね」。そりゃ、そうでしょう。昭和3年のことです。北朝鮮からは、手紙も届くのが遅かったし、電報、電話も、不便だった。洗礼をうけた日と、役場に届けた誕生日が違うのは、当時は誰にも有ることだった。「洗礼名は、大天使ガブリエルです。乙女マリアに神のお告げを果した天使です」。よく、この名前を付けた、珍しいと思いますよ。誕生のときの写真は、原爆にも燃えず、残った。「こんな時代も、あったんだね」。★遠い昔に生まれてから、今まで、よく生きてきたと思いますよ。先日、泌尿器科へ定期の診察へ行ったとき、お医者さんは告げた。「次の診察のとき、ステントの入れ替えをしましょう」「今は調子がイイのですが、やはりクダを入れないと、いけませんか」「入れていた方が、安心です。3月8日の午前中に、入院してください。午後から、手術しましょう。1泊、病院で過ごせば、大丈夫でしょう」★3月1日、誕生日。4,5,6日は、オバマへ。8日に入院します。★昨年の今ころは、尿が全く出ないで、四苦八苦。入院を繰り返していた。まだまだ生かされて、今日も、祈る。


2013年2月24日日曜日

40年前、陽あたりのイイ場所・トマ写。メダイの娘さん

長崎の、陽あたりのイイ場所。それは、今から、40年ほど前に、外海で撮った、このスナップです。忘れ得ない1枚です。まだ時代は純朴だった。村の娘さんたちは、大人もそうですが、胸に、マリアや、イエスのメダイを大切に掛けていました。信仰の「あかし」ですよ。「カトリック信者です」。信者の家に生まれ、これ以外の教えしか知らない。このシャシンを撮ったのは、ドロさまの小聖堂、大野の教会でした。後ろの赤い壁は、ドロさまの壁(べい)です。ドロさまは、外海では有名ですよ。村人たちは、ドロ神父から、人を愛すること、生きる意味、神さまのため働くことを教えられた。貧しかったけれど、一本道で、幸せでした。ヒトには、それぞれ、生きる役目が、ある。この娘さん、どこを見詰めていたのか、いま思います。未来でしょうね。歳は若いが、家庭で、何らかの役割があって、せっせと果たしていたに違いない。やがて、役割は、成長して、あるいは村を出て、結婚して、家庭を持って、などなど想像すれば、その役割は、無限に広がったわけです。形だけの役割に捕らわれることなく、信じた教えも、純朴な心も、正直に、生きたいと思います。

2013年2月23日土曜日

色紙を送ります。着くのをお楽しみに。生きる導きは不思議

3ヶ月ほど前に、聖コルベ館へ来た北海道の裕子さん。色紙を、2枚、送ってください、と願いがあった。普通は、現物を見てからしか、お渡ししないのだが、1度、見ておられるし、この間も買って帰られたので、お願いに応じた。立派な、絵でもないし、すばらしい字でも、ない。ヘタは、ヘタだが、これも聖コルベ館の修道士が描いたことに、少々の値打ちは、あると思っている。裕子さんからの願いは、絵の指定、字の指定が、あった。「言葉は、①神の計らいは限りなく、生涯、私はその中に生きる。②神は、どんな苦しみの時にも、私たちを慰めてくださる。私たちは、その慰めによって、苦しみの中にいる人を、慰めることができる」「絵は、春向けに、紅梅。秋に、ブドウを、お願いします」「長崎では、梅は早春でしょうが、北海道では、5月に、桜と同時に、咲きます」と、あった。裕子さん、色紙は、できました。宅急便で送ります。神の計らいは、は詩篇、139の中の言葉です。典礼聖歌にもあり、よく歌われています。本当に、神の計らいで、私たちは導かれているのを、悟ります。自分で、生きているのでは、ない。生かされている、ということです。もう1つの言葉は、少々、長いですが、意味は深長です。コリント、Ⅱ、1・3から5、に記載されている。慈しみ深い父、すべての慰めの源である神を、ほめたたえようーと、その後に、この言葉がつづいている。どんな苦しみの時にも、慰めてくださいますよ。そして、その慰めによって、私たちは、苦しみにある人たちを、慰めることができるのです。こんなに深い思想があるでしょうか。1つの言葉は、1枚の色紙は、貧しいかも知れないが、心が、タマシイが、こもっている修道士の色紙です。裕子さん、間もなく、色紙は届きます。お楽しみに。


2013年2月22日金曜日

温かい陽ざし、顔はホホエみ、心はなごむ。さあ、出かけるか

「おおーぃ。出かけるぞ」。日当たりの、いい午後、クルマを待つ間の出来事です。聖ヨゼフのご像の前です。「こっちへ、来いよ。シャシンに写ろうぜ。春のような日差しで、気持ちが、いいよ」。ニコニコ顔の3人が、集まった。紹介します。左から、奄美出身の神父さん、82歳。次いで、ボク、85歳。その右が、会計長の修道士、長崎出身、79歳。いずれも後期高齢者だが、フランシスコ会の修道者だからね、みんな、ゲンキで、朗らかで、温かい心の持ち主ばかりだよ。「これから、クルマで1時間ほど走った田舎で、この近くで、働く同じ会の修道者たちの集まりがある。出かけまーす」。結局、この日、夕方から、夜にかけて、17人が集まって、お祈りをして、話し合い、会食を楽しんだ。みんな、がんばっているよ。すべては、信じる道を行くためよ。前にも、書いたが、「神の計らいは、限りなく、生涯、わたしは、その中に生きる」。常に、心の中で呼吸しているセリフだよ。会計の修道士は、17歳で入会したという。ボクも、17歳だった。「生涯、その中に、生きる」的中だよ。滝神父さんは、高校時代に、永井隆先生の著書を読んで、この道を目指したという。実は、それぞれ、3人とも、歳はとっても、弱い存在なんですね。常に、神さま、助けて、ください。導いて、ください、の気持ちですよ。かけ引きなく、マトモに、この道を直視しなければ、進むのは、むずかしい。祈り、祈った者が、最後まで、走りぬく。


2013年2月21日木曜日

久しぶりに、原爆の体験を、小学生たちに語る。カラダ、良好

東京の小学生、120人、修学旅行で、長崎へ。被爆の体験を語る。6つ、ボタンの黒制服。それに短いズボン。寒かろう、長崎も、寒かーよ。熱心に、話を聞いてくれた。こちらも、熱をこめて、語った。「核兵器、2度と、使うな」「戦争は、2度と、繰り返すな」。老いて、切なる願いです。話の前に、少々、緊張ぎみ。胸が重く、声が、まともに出ない。毎年、この小学生に語ってきたが、ああ、これが最後か、そう思ったよ。話したのは、昨日の、午後だった。今朝は、1夜あけて、よく眠れたし、朝から、声も、ちゃんと出た。祈りの調子も良かった。泌尿器科の予定の診察日。白浜さんのクルマで出かける。お医者さんの診察は、好調。「細胞診は、1、です。正常です」。ボウコウのガンは、もう正常らしい。問題は、腎臓の、流れです。


2013年2月20日水曜日

信じる者は、失望しない。願えば、生きるチカラが与えられる

午後から、しばらく自室で休んで、3時に、聖コルベ館へ出た。「東京から、女性が、小崎サンに会いたい、と言っておられるよ」「え?いま、どこ?」「ルルドへ登られた。もう、すぐ、来るでしょう」。机で、片付けものをしていると、「ピン、ポン」。「やあ、初めまして」。資料室の黒ソファーに招く。「長年、騎士誌の愛読者です。楽しみに読んでいます。お元気そうですね」。この女性の特徴は、聴覚障害者のため、テープに声を入れている。主に、騎士誌や、カトリック新聞、教区報などから取っています。小崎サンの記事は楽しみです、と心をこめて話してくれた。「長崎へは、何日?」「8日間ほど、黙想の家でお祈りします」「恵まれた日ですね。心を、ゆっくりして、神さまの前に、自分を差し出して、お恵みに委ねながら、反省もして、これからの人生に道筋を立ててください」「いま、小崎サンに出会って、お話を聞いて、心がホットしました」と胸を撫で下ろしていた。1980年代に、要理を習って、洗礼をうける。導いてくださったカナダ人の神父さんの名前を告げたが、修道士も知っている司祭だった。なつかしい思いがする。2年前に、東京で、94歳で亡くなられたという。時々、面会へ。「最後まで、司祭で、ありたいです」。信仰は、出会いによって、つながって行くのだろう。「黙想が終わったら、お恵みを聞かせてください。また寄ってください」。タクシーが来る間、庭で、市内を眺めると、立山に、黙想の家が望遠できた。


2013年2月19日火曜日

時には、聖コルベ館に寄ってください。マリアさまの恵みある

聖コルベ館、玄関のパネルを変えた。聖コルベ館へ見学に来る皆さんに、伝えたい真意は、いろいろ有ります。「身代わりの愛」は、すばらしい模範です。でも、コルベ神父さまのお望みは、「マリアを通して、イエスへ」「けがれなき聖母マリアさまを愛してください」「けがれなき聖母マリアへ、あなたの総てを、奉献してください」「そうすれば、あなたは、幸福に、なります」。その願いではないですか。まあ、門番みたいな、モンですよ。きのう、黙想の家で、2泊3日の日程で、静修をしていた女性たち、4人が見学へきた。コルベさまの話を少しばかり聞かせると、「ああ、よかった」「よかった」と満足して、帰りには、色紙を4枚、買い求めて、去った。こころが通じる、これが難しい。お説教は、ダメだよ。モンクも、ダメだよ。体験を、感じていることを、ホンネで語る。それが、いちばん、いい。ニンゲン、生きるのは、大変だよ。


2013年2月18日月曜日

梅の開花。少し遅め。山はやっぱり寒いのかなあ。心和む

ルルドへの坂道の「梅」も、ほぼ開花した。幸せは、自分の心が、きめる。考え方を変えれば、また道も開ける。人生には、申しわけないと、言わなければ、ならない人が、いる。老人には、なあ、思い出が、あるんだよ。シスターが、助けてくれたから、燃え尽きるまで、死なない。これも、1つの信仰と、思います。みんな、こころの中で、生きているんだよ。いまを、せいイッパイ、生きれば、よい。その思いは、天にまします神さまに、届いていますよ。最近は、ゲンキが出てきた。祈りの声も、大きく出る。朝は、5時に、起きている。「やる時は、やるさ」「ケツアツ?」「125に、75さ」「いいじゃないか」「調子は、いいね」「お恵み、たい」「そう思って、カンシャたい」。ここまで書くと、韓国人の女性たちが、6人、ぞろぞろと、やって来た。韓国人も、日本人も、わからんたい。見分けが、つかない。少々、太目のジャンパーを着ているだけ、かな。女性の1人は、おんトシ、83歳という。終戦のときは、15歳。女学校だった。日本語、少し分かります。ガイドさんは男性。「きょう、福岡に着いた。あした、朝いちばんで、上五島へ。2泊目。また長崎へ戻って、外海から、平戸へ。3泊目。最後は、生月を周って、福岡へ。3泊4日の巡礼の旅です」。円安で、いいね。恵みの多い、巡礼をしなさい。ニッポン、カトリック、少ないけれど、長崎、教会、たくさん、あります。


2013年2月17日日曜日

土曜の午後、お茶のタイム。教授夫妻と、いっしょに楽しむ

「小崎サン、出て来られませんか」。長崎大学の客員教授夫妻から、お声がかかって、出かけた。午後2時というのに、ファミレスは満席だった。奥さんも、かつては高校の先生。「いつ頃からの、ご縁ですかね」と修道士。「もう、30年は、なるかしらん」。その頃、夫妻は、キリスト教会に通っていた。奥さんが、お客さんをお連れして、騎士を訪ねるうちに、修道士が原稿などを依頼して、更に奥さんから、クルマを運転しないからと、差し上げます、と言われた。「あの時は、びっくりしましたよ」。久しぶりに、差し向かいでお会いする。「修道士は、学問していないから、知識は書けない。人間味あふれる実話です」「それが、いいんじゃないですか」と、奥さんは持ってきた、騎士誌2月号をテーブルに置いた。「昨年は、何度も入院されて、大変だったのね」「ええ、まあ、何とか切り抜けました」「小崎サンの記事は読みやすい」と、後押ししてくれる。感心にも奥さんは、ホームレスさんを自宅にお連れして、入浴させ、食事を与えて奉仕している慈善家だ。その行動には深い愛を感じる。一方、教授の先生は、大震災の現場にも2度行かれたそうで、哲学からみた「核時代の現実」論文を見せてくれた。夫妻は、12,3年前、カトリックへ転宗された。修道士から見れば、教授の高貴な先生夫妻だが、人格・学問の差を感じさせず、夫妻の温かい心情が伝わってきて、話しやすい。「同じスタンス」。オレが偉い、お前はダメの関係よりも、人と人の関係、それが心を和やかにする。修道士は、カトリックの「諸聖人の通功や、福者・聖人のこと、証聖者と殉教者の違い」などを説明し、お互いの交流を果たしつつ、大いに慰められ励まされた2時間であった。


2013年2月16日土曜日

生きるのは、遺伝子。偉大なチカラが与えた。科学も解明

1枚のメモがある。2005年1月30日、民放テレビ「心のともしび」を見ながら、メモしたカードだった。つくば大学の先生で、村上和雄とある。このメモを書いて、もう長い間、忘れていた。昨夜、ラジオの深夜便、午前4時からの声を聞いていると、人間の死について、終末医療、最後について話していた。誰もが、来る死。しかし皆は、死について考えを避けている。タブーにしている。本当は、もっと、しっかり受け止めて生きるべきだ。死ぬのを恐れながら死んでいく人。受容して死ぬ人。デーケン先生の話も折り込んでいた。死について考えよう。いただいたもの、感謝。そのように語るのは、東北大学の吉永馨というお医者さんだった。大勢の患者の終末医療を見取ってこられたという。人間、死んだら、どうなるか。ここで、吉永先生は、「村上かずお先生の遺伝子」を出したのだった。人間の遺伝子は村上先生によって解明された。人間は、宇宙の力、偉大な力が造った。人間は宇宙に戻る。科学時代に、私は、そう思うと、言い切った。そのとき、「待てよ。村上かずお先生とは、以前、メモしたことのある先生ではないか」。朝になって、机から、メモを見つけたのが、この1枚でした。「自然は、生命の設計を書いたが、でたらめには書けない。サムシング・グレート。偉大な、ふしぎな働きがないと、生きていけない。神がいても、ふしぎでない。心によって、遺伝子が、オンになる。2004年に分かった。生きている、すごい。感謝する。目標を、持とう。志(こころざし)を、持とう。生まれてきたのは、使命があって、花を咲かせる、とメモの裏側には書いてあった。


2013年2月15日金曜日

朝の食卓。チョコで賑わう。もらっている内が、花だぞ

今朝の食卓は賑やかだった。もらったチョコを全部、テーブルに並べた。さまざまなお国、さまざまな姿のチョコレートがある。やっぱり、若い人の方が、もらう率は多い。オレなんか、出すチョコは何もなかった。「チョコを、もらっているうちが、花だぞ」。うらやむというか、1発、声を上げると、「ワッ、ハッ、ハ」と、爆笑がおこった。「振り返ってみると、そういう時代も、あったさ」と負け惜しみ。80代にもなれば、チョコは出せなかった。しかしホンネを語れば、数日前に、聖コルベ館に(写真の)小さなお友だちが来て、1箱のチョコを貰ったのだった。ありがとうね、小さなお友だちよ。考えてみると、昭和3年生まれだよ。戦争中、チョコなど、あっただろうか。食ったこともない。お菓子と言えば、キャラメルぐらいだった。戦後も、食料不足に悩まされた。不運の時代を生きたわけだ。いまの若者は、ゼイタクだよ。そんなに、「ハ、ハ、ハ」と笑えない。でも、いただくと、やっぱり嬉しいなあ。もらえるからには、カンシャしよう。(この写真は年賀状から取りました)


2013年2月14日木曜日

訪ねてくれる人がいる、うれしいよ。よし、励みになる

「トマさん、居りますか」。訪ねてくれる人が居るのは、ありがたい。2月も、連休を利用して、東京から、1組の夫婦が訪ねて来た。「5年ぶりに来ました」「ええ、もう、そんなになるかね」。あの頃はダンナさんが、お医者さんに成り立てだった。専攻は、精神科の医師。いまは内科も兼ねて、終末の医療や、介護の面でも、活躍している。「トマさんの具合はどうですか?痛むところは有りませんか」「ああ、ありますよ。肩の、この辺が痛むのです」。右腕の、肩から下へ、ヒジの間、ここが痛む。原稿はワープロで右手で打っている。その苦労が積もり積もって、痛みが重なって、取れないのだろう。ダンナさんが、触って診てくれる。「こそばゆいなあ」。5年間に起こったカラダの調子を語る。「尿が急に出なくなって、6回も入院した。腎機能が、5、まで低下した」「ええ」と、驚いた表情。透析の数値だったらしい。「病気があっても、なんとか乗り越えていく。そう簡単じゃないけどね」「大事にしてくださいね」。夫妻は翌日も来て、信者さんとルルドへ登って行った。サイン帳に、「清新な、冴え、さえとした、心境に、たちかえる。ルルドでは、そんなパワーが、もらえます。トマさん、またお会いしたいです」と記していた。


2013年2月13日水曜日

13歳まで育った北朝鮮。核実験に世界は大きく動揺する

北朝鮮で生まれ、その地で、13歳まで育った。いわば北朝鮮はフルサトです。山も懐かしい。海も懐かしい。学んで、食べて、遊んで、楽しい思い出が一杯ある。その北朝鮮が、核実験をおこなった。バクハツさせた場所は、育った町から、さほど遠くない。あの山が大きく揺れた。被爆者である身分から考えれば、その恐ろしさは、確実に分かる。恐れと、悲しさに、胸は打ち震えた。北朝鮮で生まれて、すぐにカトリックの洗礼を受ける。カトリック信者となった。洗礼名は、ガブリエル大天使。北朝鮮にも、カトリックの信者さんがいた。朝鮮人の神父さんもいた。あの信者さん、神父さんたちの安否は、健在であろうか。心配される。核実験の事実は、新聞に大きく報じられたが、その同じ場所に、ローマのパパさま、ベネディクト16世教皇さまの引退の記事も載っていた。85歳になられるという。存命中の引退は、600年ぶりと記されている。

2013年2月12日火曜日

長崎は、ランタン祭りで賑わう。チャンポンもおいしい

長崎は、いま、ランタン・フェスティバルといって、中国のお祭りで賑わっている。10日の日曜日が、旧の正月だった。その日から、2週間、ランタン祭りで、長崎の町は彩る。今年は、ランタンが入ったオブジェが新装になって、一段と盛り上がっているそうだ。夜のランタンを見物して、チャンポンでも食べて、中華街をウロウロして、気分さわやかになれば、これもいいことだろう。集まる見物人は年々増えて、50万人とも、70万人とも言われる人が集まるそうだ。ランタン祭りのさなかに、希望者の結婚式もおこなわれるとか。皆さんに祝福されて、思い出に残るだろう。ランタンは冬のナガサキのお祭りとなって、定着した。庶民的で、好まれる。中国・ランタンといえば、オープンの気持ちで、開かれた気分になる。ナガサキ・人には、そういう、おおらかな気持ちがある。出島も開かれていたもんね。

2013年2月11日月曜日

155年前、フランス・ルルドの聖母マリアご出現の記念日

太平洋戦争の真っ只中であった。母親が、15歳の少年を聖母の騎士のルルドへ連れて来たのが、人生の道を決した。ちょうど小神学生たちが、10数人、ルルドの聖母に、ラテン語の聖母の連祷を歌っていた。「ああ、いいなあ。あの仲間に入りたい」。人間によっては、子どものときから、宗教へと傾く何かが、あるのだ。その時は、まだ「時」ではなかったが、2年後、母親は原爆で行方不明となり、少年は孤児となった。あのラテン語の仲間に入ることになった。以来、70年。聖コルベのルルドを見詰め、祈ってきた。沢山の恵みもいただいた。フランスのルルドにも度々巡礼も果たした。ある年、聖母の騎士のルルドは、彦山から噴出した山津波によって、大きく流され、地面をえぐり取られたが、幸いにも、ルルドのマリアさまは安泰であった。いかなる水の飢饉にも、水が枯れた年はない。市内はもちろん、県外からも、遠くは広島、岡山からも、車で、水を汲みにきている。★ルルドの意義は、マリアさまが「わたしは、けがれなき御宿りです」と宣言されたことだ。「マリアを通して、イエスへ」を目指していた聖コルベは、マリアさまのイメージでも、特に、「けがれなき聖母マリア」を常に念頭に置き、祈っていた。「けがれなきマリア」に、ルルドと聖コルベの接点がある。★聖コルベはポーランドの修道院で、ナチ・ドイツ軍に逮捕される直前、「わたしは、マリアさまから、天国を約束された」と修道士たちに打ち明けたが、「それは、日本に居るときでした」と付け加えた。日本のどこだろう?ポーランド人修道士の解釈によると、「それはルルドの聖母に祈っていたときではないか」と言う。★原爆で重傷を負った医師・永井隆教授は、ルルドの水で、奇跡の恵みをいただいた。★10時から、記念のミサがあり、その後、ロザリオを唱えて、ルルドへ登った。100人ほどが参加した。

2013年2月10日日曜日

お花で飾ろう、心も、人生も。ヨゴレの少ないヒトは幸せ

きれいな花輪をもらいました。ありがたいですね。「トマさん、がんばってね」。願いがこめられています。「紙ですか」「いいえ、紙・粘土です」「すばらしいお花だよね。うれしいよ」。歳をとると、段々と、のけ者にされてしまうんだな。イヤだよ。まだ、まだ、付いていくよ。「遅れは、とらじ」。だけど、耳が遠くなるので、話題に入っていけない。「いま、何んの話題?」なんて、聞くようになる。バカに、しないでね。ヒトは、それぞれ役目がある。★昨年の12月から、色紙を描き始めている。2ヶ月で、ちょうど、50枚売れました。買ってくれる善意の人が居るんですね。これも嬉しいですよ。どういう言葉が求められているのか。気になるところです。最近、売れた言葉は、①「どんな逆境でも、希望と、勇気で、今を生きる」、②「主に、つながれて、おれば、豊かな実を結ぶ」、③「愛のあるところ、苦しみなし。たとえ苦しみありとも、のち喜びとなるべし」などでした。早速、ルーマニアの家族に、ユーロで贈りました。喜んでくれるでしょう。お役にたてば嬉しいです。200ユーロづつ贈ったが、ユーロの変動は痛手ですね。去年の12月は、1ユーロ、107円だったのが、今年1月は、116円、2月は、126円になりました。払うお金も、21.496円、23.242円、25.284円と、大きく変わって行きました。円安は、こんなところにも、ひびいている。それでも、がんばるよ。よろこばせたい、一念です。愛のあるところ、苦しみなし。

2013年2月9日土曜日

隠れた1介の修道士。苦労は、神さまだけが知って居られる

先日、神に召された修道士、ライモンドさん、「満州で終戦を迎えた」というだけで、過去を全く語らない人だった。修道院へ入って、ポーランド人修道士が料理長をつとめる助手になった。まず、市内の料理店へ弟子入りして、修道院から通って修業した。その後、ポーランド人に代わって、修道院や学園の料理長をつとめた。料理に熱心な修道士だった。彼が修道院へ入会してからは、皆さんは、彼の行動を知っている。しかし、彼がなぜ洗礼を受けたのか、なぜ聖母の騎士へ来たのか、家族はいるのか、兄弟姉妹はいるのか、入会以前のことは何も語ることはなかった。もの静かな修道士だった。それでこそ、修道士と言える。彼が亡くなり、火葬場へ遺体は運ばれた。修道者たちが20人あまり同行した。その中に見知らない老人夫妻が混じっていた。骨になるまで、1時間30分ほど要する。待ち時間は長く感じられた。その老人の夫婦の、男性に声をかけてみた。実の兄さんだった。しかもお医者さん(内科医・開業)だった。「え、お医者さんのお兄さんが居たの」。彼は全く何も語らなかった。お通夜や葬儀ミサでは、「修道院の食事の世話で、奉献生活を尽くし、隠れた生涯を全うした」と、それだけ称えられた。お兄さんは言う。自分たちには7人の兄弟姉妹がいる。満州から引き上げてきたときは、貧しさ、苦しさのどん底だった。彼の兄(自分も含めて)、2人は家を出て、大学で学んでおり、彼が働いて、その給料で、両親や弟、妹たちを養い、面倒をみていた。彼を除いて、みな健在です、とお医者さんの兄は感謝していた。黙々と働いて、家族の面倒をみながら、やがて自分の道、修道士へと進んで行った。それらのことは何も語らず、最後の日に、初めて知った。お医者さんの奥さんは、「カトリックの葬儀に初めて与った。心のこもる、すばらしい葬儀に感動しました」と言って、別れた。遠い昔の家族の出来事、苦労かも知れないが、誰も知らないことです、神さまだけが、知って居られる。

2013年2月8日金曜日

誰にでも、やってくる、死。また、1人の仲間を見送った

1人の修道士さんが、亡くなった。83歳であった。先日、お見舞いに行ったとき、口をあけて呼吸をして、目は閉じたままだった。穏かなカオをしていた。「ライモンドさん、ライモンドさん、トマだよ、トマが来たよ」と、カオの近くで呼びかけると、「ピク、ピク、ピク」とマツゲが大きく動いた。「ああ、わかっているんだな」。その彼が、神に召された。若者のころ洗礼を受けて、修道院へ入り、主に、料理を作りながら、奉仕をしながら、老いるまで生涯を貫いた。穏かな修道士だった。低い声で語り、優しい目をしていた。「生涯を貫くとは、大変なことだよね」。そして誰にでも、やってくる死。若いころは、死ぬなんて、あまり考えもしなかったが、老いてくると、やはり考えるのは、自分の死に方だ。楽に死ねるか。彼の最後は、眠ったままで、いつ呼吸が止まったのか、わからなかったそうだ。うらやましい死に方だった。

2013年2月7日木曜日

26聖人の道を歩いた夫妻。神のはからいは限りないと感謝

日本26聖人の祝日だった。「広島県福山からです」と、夫(70歳)、妻(68歳)が見学にきた。「2年かけて、26聖人の道を歩きました」。京都から、旧・街道を、長崎まで、次つぎに、つないで行った。1日、歩いたり、長いときは、4、5日。平均で、25km歩いた。「結局、43日かかりました」「えらい、なあ。26聖人は33日でしたね」。夫妻の健脚を称えた。2人の表情は爽やかで、カラダじゅうから、オーラが出ているのを感じた。夫妻に問うた。「いま、人生を振り返って、思う1言は、ありますか?」。夫が答えて、「人は、それぞれに、役目がある」。妻は考えて、「神のはからいは限りなく、ですね」。そういい残して、夫妻は午後の列車で、福山へ戻った。★今朝、聖務日祷を唱えながら、文章から、ふと思った。人には、霊魂(アニマ)と、カラダがある。カラダは母親の胎内から貰う。アニマは神から頂くわけだが、天地創造の昔から、神さまの中に記憶されて、有ったに違いない。詩篇の139を読む、神よ、「あなたは、わたしのからだを造り、母の胎内で、わたしを形造られた」とある。紀元前、何世紀も以前に、詩篇に、もう、このように記されている現実に、驚異さえ覚えた。詩篇139は更につづいている。「わたしを造られた、あなたのわざは不思議」「わたしの骨は、あなたに数えられ、わたしのすべては、あなたの書に記されている」。そして「神のはからいは限りなく、生涯、わたしは、その中に生きる」とあるではないか。★それを読んだとき、瞬時に、あの福山の夫妻を思い出した次第であった。なぜ生活において、こんなに、うまく、つながるのだろうか。事の運びにも、はからいを思った。

2013年2月6日水曜日

ルルドの梅。まだ3分咲き。春は遠い。生きる現実に祈り

ルルドへ登る坂道、梅の木が数本ある。まだ、3分咲き。寒さが続くせいだろうか。場所によっては満開だが、ルルド周辺は、風あたりが厳しいのか、ツボミは固い。寒さに負けず、ルルドに参詣に来る人は、多い。★昨日は、26聖人の祝日であった。殉教の地、西坂の教会では、朝の9時から、2時間おきに、ミサが捧げられた。また、その時間、告解もできる。信者たちが、大勢、教会に集まって祈っていたと、聞いた。最後のミサは、夕方の7時。英語のミサだった。26聖人の日には、西坂の教会へ行けば、ミサで祈れる。告解もできる。その習慣が定着すれば、信仰を盛り上げる上で、最良だと思いました。★今朝、思いました。信仰における祈りとは、何ですか。それは、「主よ、主よ、ください、ください」と願うだけでなく、神のみ旨を知って、それを実行することではないですか。これは何度となく、聞かされてきたことです。では、神のみ旨とは、何だろう?自らに、問いました。「いま、あなたが持つ気持ちは、何ですか。いま、神のみ旨は、何んと思いますか。祈りの中に、探し求めてください。方向は、わかると思います。そう、難しいことでは、ないでしょう。わかったら、実行しよう。仰せのとおり、我に成れかしと、受諾しよう。いまは生かされていることを感謝しよう。それが信仰の道のように思います。

2013年2月5日火曜日

日本26聖人殉教者の祝日。立ち上がって、一緒に進もう

修道士の名前の祝日です。トマ小崎少年。15歳。京都で捕らえられ、長崎まで護送されて、33日、歩いた。西坂の丘で、他の殉教者たちと共に、十字架にかけられて、ヤリで突かれてイノチを捧げた。「パライゾ、天国」と叫んだ殉教者の声。現代に生きる修道士は、お花をもらい、ケーキをもらい、何も貢献するものは、ない。殉教への道は、厳しい。ただ眺めているだけで、いいのか。今朝、思った。自分のジンセイを振り返る。原爆にあって、孤児となり、ポーランド人の修道者たちに救われた。コルベ神父の小神学校に学んで、修道士となった。そのとき、もらった名前が、「これ」だった。トマ小崎。昔の武士は、洗礼を受けて、キリシタンになると、霊名のトマは、登明と、書いた。「名前を貰ったお前は、殉教者のように、生き得るのか」「いいえ、いつも、ラクを求めようと、しております」「それで、いいと、思っているのか」「助けて、ください。導いて、ください。チカラを与え給え、ホントに、そう願います」「さあ、いっしょに、立ち上がって、進もう」。電気店の社長さんが、大きなランを贈ってくれた。3月半ばまで、咲いているだろう。昨年も貰った。もう、5、6年つづいている。ありがたい。本気にならなければね。ヤル気を出さねば、と思う。修道名の祝日が来るたびに、反省し、覚悟する毎年です。

2013年2月4日月曜日

同伴者に成れ。だが、共に苦しみ、共に喜ぶ、難しさ。

聖コルベ館に見学に来た若者が、「長崎のコルベ神父」を読みました、と言えば、気になりますよね。ブログも見ています、と言うし、ネットから、コルベ神父についての話(動画)も見ましたと言われれば、なお更、気になりますね。県外から、片道、3時間、高速で来たという若者がいた。「ああ、そうなの」と興味を示すと、彼は車から小型のパソコンを持ってきて、動画を見せてくれた。普通は、職業を聞くのは遠慮するのだが、ここまで踏み込んで来られると、ついつい「お仕事は?」と聞いてしまった。「臨床心理士です」。それで話易いんだ。当方の話を、スムーズに彼は理解してくれる。いろんな人の悩みを聞いているから、慣れている。彼との会話のやり取りから感じたことは、「苦しむ人と共に苦しみ、喜ぶ人と共に喜ぶ」、つまり「同伴者になる」という姿勢だった。オレは原爆の丘で、同伴者に成れなかった。コルベ神父は強制収容所のどん底で、同伴者に成り得た。そこが違う。しかし、本当に、「共に苦しみ、共に喜ぶ」ことは、いかに難しいことか。「いかにすれば同伴者に成れるか」と若者に問えば、彼は答えた。「愛でしょうね」。人間は孤独で生まれ、孤独で死んでいく。その中間に、いかなる同伴者を探すか、探し当てた者が幸せになる。「ツライ経験に、意味づけを、する。例えば、乗り越えると、強い人間になれる、とか、よろ神さまに近づける」。そう言って、聖コルベや、修道士の文庫本を数冊求めて、サイン帳に、名前だけを書いて、若者は、十分に時間を過ごして、午後から去った。

2013年2月3日日曜日

原稿を1つ書き上げた。騎士誌の4月号をお楽しみに

覚えていますか。昨年の元日に、聖コルベ館に最初に見学に来た母親と娘がいた。「わけありの親子」と言った。今年の正月に、最初に、あの娘が又、やって来た。「ええ、また来たの?」。その辺は、ブログに載せた。おもしろいじゃないですか。前に、いちばん。今年も、いちばん。こんな具合が、こんな構成が、好きなんだ。それで、騎士誌の原稿に書き上げた。題が「苦しみにも、意味がある」です。「汝、今は知らないけど、後になって、この意味を知るだろう」。聖書の言葉です。いま、苦しみで、辛いよね。でも、乗り越えよう。後になって、大きな慰めになる。その意味が分かるのが、信仰のチカラです。ジンセイ、いろいろ、言うじゃないですか。難しい世の中です。自分は、いいと思っても、回りの人は、そうは思わない。そこが世の中の難しさです。でも希望は捨てないようにしよう。騎士誌は、4月号になります。3月10日ごろ活字になるでしょう。作家・三浦綾子さんは、病気が進行して、カラダがガンジガラメになったとき、言った。「ああ、いまこそ神さまが、私のことを、考えてくださる」。すばらしい信仰なんですね。「よいジンセイとは、苦しみが無いことでなく、苦しみが有ったればこそ、神に出会った。苦しみに、意味を見い出したとき、すばらしい人生になるでしょう」。口ぐせになった1句です。

2013年2月2日土曜日

捨てたモンじゃない、ジンセイ。思い出もあった。よかった

資料室で、1枚の写真を示している。コルベ神父から、イノチを助けられた男性に出会ったときの記念の写真です。沢山の写真の中で、大切な思い出です。この男性は、コルベ神父が、身代わりになってくれなければ、イノチは、なかった。「おかげさまで、イノチをいただいた」。その現実。大きなお恵みでしょう。これほど大きな恵みはない。この男性、もう老人になっていたが、彼は、青い美しい目からナミダをながしながら、言った。「もう、コルベ神父さまに、ご恩はお返しできない。だから、いただいたお恵みを感謝しながら、それを、どなたかに、別の形で、与えていく、それしか方法は、ないのです」。今度は、与える幸せを体験する。一般に、言われています。「受けるより、与える方が、幸いである」。これ、ホントですが、「受けたことによって、今度は、与えさせていただく」。この1枚のパネルから、大きな教訓を学びます。恩を返していく。これはニンゲンの生活において、大切な事、注目すべきことではないですか。★貰うだけでは、ダメということですね。自分も奉仕する。さあ、腰をあげよう。隠れたところから、隠れたものを、見ている御方が、いる。

2013年2月1日金曜日

2月に入った。ゲンキを出せ。小さな目標で、いい。前進

最近、言われた。「疲れたカオを、しているね」。また別の人からも同じセリフを言われた。これでは、ダメだな。バツだよ。ビシッと、せにゃ、イカンよ、自分に言い聞かせる。声は、大きく、出そう。特に祈りの声を、ね。これは、マルだね。ニンゲン、何んにも言わずに、黙りこっく、なる者、あれが、いちばん、スカン。「声なりとも、ゲンキよく、よし、これで行こう」。1月は、正月があった。2月は、日本26聖人の祝日がある。3月は、誕生日だ。毎月、希望の日があるじゃないか。楽しみを、つくろう。目標を決めて、マルで、行こう。ゲンキで、行こう。偉くならんでも、いいさ。知識や、理屈では、人は感動しない。優しい目をしよう。アセと、ナミダと、愛情で、人の胸は満ち溢れ、一杯になる。欲しいのは、みちびき、つながり、安らぎ、それだね。あれほど、立派な証言をしていた先輩が、老いていくのは、寂しい。ニンゲンの弱さなんだね。長生きすると、いろんな現実を見過ぎるよ。悲しいね。★月の初めの金曜日は、午前中、黙想になっている。沈黙で過ごし、午前11時過ぎから、聖堂で、ご聖体の前で、静かに祈り、反省し、平和を願う。心を落ち着けて、修道士である喜びを、味わう時間でもある。皆さんのためにも、祈ります。祈りは、どこに届くか、ご存知のお方がおられる。