2018年5月26日土曜日

ペトロ瀧憲志神父さん、誕生日。87歳。おめでとう

今朝、朝食の食卓に就いた。隣の席、瀧神父さんの朝食の傍らに、封筒があった。「あッ、神父さんの誕生日だ。おめでとう」。誕生日には、職員一同からお祝いの手紙がくる。これが、そうです。縦、14cm。横、20cm。Pushを押すと、音楽が鳴る。写真は昨年の夏、近くの轟(とどろき)の瀧へ、流しソーメンを食べに行ったときの神父さんです。職員は、ちゃんと、丁寧に、飾ってカードを作ってくれるんですね。ありがたいことです。こちらも嬉しくなります。
★瀧憲志神父さんは、1931年、昭和6年5月26日に、鹿児島県大島郡喜界島で生まれた。87歳になられた。1951年12月に洗礼を受ける。永井隆博士の「滅びぬものを」の本が信仰に入る決めてとなったそうです。1956年4月、聖母の騎士修道院に入る。コンベンツアル聖フランシスコ修道会に入会する。修道名は、ペトロ。司祭叙階は1965年3月です。ホームに入所は、2017年4月6日です。1年が過ぎた。「トマのおかげだよ」と言われる。「いえ、いえ、どうも。こちらこそ」
★瀧神父さんが入所されたので、トマも寂しくない。お互い慰め励ましている。トマが寝込むと、心配して声をかける。たのもしいです。食堂は、2階。瀧神父さんのお部屋は、1階です。トマは3階で、離れている。食事が終わると、一緒に2人でエレベーターに乗って、先ず1階へ、次に3階へ直行します。仲良くやっています。
★瀧神父さんは、朝、ミサは、湯江教会で、修道院の司祭、浜田神父さん、山内園長神父さんと一緒に祈ります。朝は信徒と共に、聖務の朝の祈り、午後からのロザリオも一緒に祈ります。神父さんが居られるので、信徒も心強いです。時々、お説教もなさいます。声が大きいので、よく聞こえます。87歳、お歳に負けず、杖をついて、ゆっくり歩けます。トマの日記の最も近い読者は、瀧神父さんです。
★ペトロ瀧神父さん、いつまでもお元気で居てください。皆さんも瀧憲志神父さんを見守ってください。お祈り下さい。

2018年5月25日金曜日

あのグレゴリオ、このグレゴリオ。心の中のキズナ

ポーランド人修道士、グレゴリオさんの写真です。コルベ神父の時代に長崎へ来て、戦争中は苦労しました。顔は、ゴッツイ感じの修道士でしたが、心の優しい人でした。受付の印象が深い。晩年、ポーランド・ニエポカラヌフ修道院へ帰国して、養生していた。私がポーランド旅行中に会いに行ったとき、院内の恵まれた病院で、元気にしておられた。再会を非常に喜んだ。しかし間もなく帰天された。100歳でした。
★私が長崎の聖コルベ館に居た時の話です。音もなく1人の男性が入ってきた。「カトリック?」「結婚して、10年して、受けました」「へえ、長崎の男性にしては、珍しかね。霊名は?」「グレゴリオ」という。「なんだ、霊名も珍しいね」。共感を得た。「うちの修道士さんにも、グレゴリオさんって、居たよ。100歳で亡くなった」
★男性の話を聞けば、結婚しても、子供に恵まれない。車で、ヨメさんを教会へ連れて行く。ミサが終わるまで、車で待っている。すると神父さんから声がかかった。「中へ入りなさい」。教会の一番後ろの席で見守っていた。するとお恵みであろうか、一番欲しかった子供に恵まれた。「そりゃ、良かったね。大喜びだった、でしょう」。修道士だって気持ちは十分に分かる。時々、ルルドにお水を汲みに来るようになった、という。
★「なんで、グレゴリオって、付けたの?」「映画、白い鯨の俳優の名前で、好きだったから」「なーんだ、そんなことか」。それでも彼、グレゴリオは帰りしなに、こう言った。「神さまの、存在って、言うか、神さまの導きだよね。働き、それは確信しています」。今日は、そんな事を思い出した次第です。

2018年5月24日木曜日

アシジ聖フランシスコ大聖堂・献堂の祝日でした


日記を書き始めた年、2009年8月に、次の文がある。「イタリア・アシジの聖フランシスコ修道院で8年間暮らした瀧神父さんが、私たち(聖母の騎士修道院)共同体の一員となり、一緒に祈り、食事している。時折、アシジの話が食卓に出る。懐かしいアシジ。お城のような修道院にも何度も宿泊し、修道者一緒の昼食、夕食では、毎度ワインも飲んだ。日本で飲むワインとは全然違う。飲み易く、家庭的な、おいしいワインだった。滝神父さん『日本人の観光客が沢山来るが、ツアーの添乗員は、15分で説明して下さい、と言われることもあって、困るね。歩くだけで15分はかかる』。大聖堂には、ジョットーの有名な壁画が多く残る」。大聖堂は3層になっており、地下に、聖フランシスコのご遺体が安置されている。ここで沈黙して祈ると、心の底に沈んで行く気持ちがする。
★その瀧神父さんは、いまホームで一緒に生活し、食事は隣合わせで食べている。今日は、湯江教会では、アシジの聖フランシスコ大聖堂・献堂の祝日をお祝いした。我らの父であるアシジの聖フランシスコ。「誰に対しても兄弟姉妹であり、その広がりは、空よ、星よ、小川よ、魚よ、オオカミよ、と呼びかけ、貧しい人への愛、病者、重い皮膚病者に対して手厚い看護を尽くし、教会の修復、十字架のキリストへの熱情から我が身に尊い聖痕を受けた。争いを好まず、平和を求めた聖フランシスコ、聖人への思い出は消えない。本会、コンベンツアル聖フランシスコ修道会員のタマシイの故郷、憧れの場所でもある。
★昼食はサンドイッチだった。当然、パンを食べながら、瀧神父さんと語り合った。「献堂は13世紀ですよね」「1253年だよ」と、はっきり覚えておられる。「神父さんが居られた時、修道院に何人位、居ました?」「60人位かな、16ヶ国から来ていた」「8年間、居た中で、一番心に残る出来事は何ですか?」「地震だね。丁度、行って直ぐ起こった。修道院の者が2人亡くなり、外部の隊員も2人犠牲になった」
★中世で、キリストを生きた人は、聖フランシスコ。現代で、キリストを生きた人は、聖コルベ。これらの人の生き方に、現実にキリストに生きる人間を私たちは見ている。そのように自分も生きたいと願い、ロザリオを唱えた。(トマに送られて来た、大阪市・許書寧さんの絵)

2018年5月23日水曜日

雨の中を、長崎へ。クリニックの定期・診察に行く


定期の診察日。雨だった。ホームでの朝食は、なし。修道院で、チーズをのせて焼いたパン、温かい牛乳、リンゴ半分をいただく。8時に出発した。高原修道士の運転。白い車は、車検の代車。車には、大きなポリタンクが何個も積まれている。トマが診察している間、聖母の騎士で「ルルドの水」を汲む。ホームや修道院では、このルルドの水を愛飲している。
★9時過ぎに、長崎市坂本町のヨゼフ・クリニックに着いた。待合室には、10人程の受診者がいた。先ず看護師さんから名前を呼ばれ、体温、血圧、状態などを告げる。しばらく待つと、大きな声で「タガワ・ブラザー」と高木先生。「よしや」と立ち上がる。診察室に入りながら「こんにちわ。よろしく。おせわになっています」と声をかける。ジーッとして居れない性分だ。「30日から、ステントの入れ換えで入院します」。体調を訴える。「歩きなさい、歩きなさい」と先生は言われる。「とても、歩けません」と言いながら、「先生、写真、撮っていいですか」。毎月、通っているが、写真を撮ったのは最近では初めてです。勇気が要りました。高木先生のヨゼフ・クリニックには2001年が初診で、もう17年、お世話になったいる。良い医師に出会うのはお恵みです。高木先生はカトリック。湯江修道院の橋口修道士、ホームの園長山内神父も通院している。診察が終わったのが、10時だった。今日は早かった。ちょうど高原さんが迎えに来た。早くホームに帰りたい。ホームの方が落ち着きます。高来町の薬局に寄って、処方箋を出して、ホームに帰ったのが、11時20分だった。長崎行きの診察が終われば、ホットします。

2018年5月22日火曜日

雲仙のお菓子「湯センペイ」。山の思い出、沢山

「ハイ、おみやげ」。隣の修道院の浜田神父さまが、自室まで持って来られた「湯煎餅」です。「殉教祭」の夕方だった。雲仙の有名なお菓子で「湯センペイ」と呼ぶ。直径10cm。厚さは0.3mmのポキ、ポキ、折れる軽いお菓子で好物です。「ああ、わざわざ有り難う」。感謝して受け取った。雲仙・町中のお店で、実際に実演・焼いている情景が目に浮かんだ。
★雲仙に初めて行ったのは、戦争が終わって5年目、昭和25年の秋だった。私は高校3年で(小神学校=当時、中・高で120人の小神学生が居た)、舎監のロムアルド修道士と、高3の同級生9人で、卒業旅行だった。交通は不便で、乗合バス利用で、長時間かかって雲仙まで登った。旅館へ2泊。雲仙の天辺まで登って、大変な豪雨に会う。雨のツブの大きさに驚いた。ほうほうの態で、旅館に戻ったのを今でも、はっきりと覚えている。ポーランド人の修道士ロムアルドさんは着替えがなく、ダルマに浴衣を着せた姿が奇妙におかしかった。枕には汚さないために紙を巻いていた。紙には「こころ安らかにお眠りください」とあったが、同級生の1人が紙を集めて、鼻紙にした。彼は蓄膿症だった。隣の部屋は県外の教師一行で、夜更けまで騒いで眠れない。次の夜は、ノミに悩まされた。炊事場のカシアノさんが持たせた、ポーランドのお菓子「フルスチィ」が残った。当時は食料不足の時代。残ったお菓子を仲居さんに上げようと決める。鼻紙の同級生が、その役目に当たった。彼は「恥かしいなァ」と、てれながら、フスマの傍へ「スーッと」寄って練習をする。途端に、フスマが開いて仲居さんが入ってきたので、「びっくり、こけた、鼻紙くん」。みんなは大笑いだった。
★あれから何年、経つだろう。鼻紙の同級生は、ローマ留学して、神父になり、素晴らしい活躍をしていたが、亡くなった。いま、修道会に残るのは、私と、あと司祭1人だけである。湯センペイを食べながら、8人の同級生のこと、ロムアルドさん、カシアノさんを思い出している。

2018年5月21日月曜日

老いても、咲くのは、善き出会いにある。来たれ友よ

「老いて、なお、置かれた場所で、咲きなさい」。そう、ですよ、ね。どこかで聞いた言葉でもある。老いても、人生ですからね。最後まで、生きる。老いると、これが中々難しい。人生って、長ーがい。青年時代も、壮年時代も、自由があり、夢があり、何処へも行けるじゃないですか。そのままの気持ちで、老いに突入すると、自由がある、夢がある、と思うかと言えば、そうではない。色々と不自由さが出て来るんです。
★最近は、右側の肩というより、上腕と肩の付け根というか、その辺が痛み、困るのです。レントゲンも撮りました。考えてみれば、右腕で、90年ですよ。書いたり、描いたり、最近はパソコンを打ったり、長ーがい年月、使ってきたから、そりゃ腕の付け根も痛むでしょう。機械だって、擦り切れます。五千円で買った腕時計が、針が止まり、動かなくなった。いつ買ったか覚えない年期の古時計ですからね。目も、ショボ、ショボして、ナミダが出て、聖書の細かい字も霞むようになった。本も読めません。背中だけは、シャンとして置きたい、そんな気持ちです。
★読書を振り返ってみると、小学生の頃は、サトウ・ハチロウのユーモア小説。修練者になって、病気の時には、倉田百三の『出家とその弟子』。よくぞ、こんな本が修道院の図書室にあったものです。エックハルトの『離在』。その後は、丹羽文雄の文章の流れに引かれた。石川達三の『四十八歳の抵抗』。小原信の『出会いの心理学』。この本は、最高によかったな。特に、この『出会い』は、聖コルベ館で愛読した。言葉の流れに影響を受けたと思います。
★「善き出会いは、人生の宝です。生きる喜びです。老いても咲くのは、出会いにある」

2018年5月20日日曜日

聖霊の風よ、吹いて下さい。弱い人間を導き下さい

早朝、修道服を着て、廊下に出た。「あっ、朝焼けだ。きれい」。思わず自室からデジカメを取り、写した。静かな朝が始まる。平和な一日が始まる。
★今日は、教会では、聖霊降臨の主日をお祝いした。「父と子と聖霊」とか、「聖霊、来たり給え」とか、日々祈ってきた。弱い我が身を「聖霊、守り給え。導き給え」と祈った。
★雲仙では、殉教祭が行なわれるので、ホームでも元気ある者、希望者は出かけて行った。私は、最近は行っていない。足が弱って、自信がない。雲仙では、あの煮えたぎる温泉の熱湯を身体にかけられて殉教した。今、温泉の湯煙の中の山中に十字架が立っている。若い信徒、中・高生や、青年会の信徒たちに参加して欲しいと願う。若い人たちに信仰の継承を期待している。
★ホームの教会では、午後3時15分から、毎日、共同でロザリオを唱えている。祈ると心が安らぐ。カトリックの祈りの雰囲気で、生涯、本当に生まれた時から、母親からお乳を与えられる毎に、「父と子と聖霊によりて、アーメン」と母親の手で十字架をさせられて育ってきた。「父と子と聖霊」。今日は聖霊のお祝いだが、聖霊の「風よ。吹いて来てください」と祈るばかりです。